沈めた敵艦の乗組員に「当時ではスマートすぎる事後対応」WW2下で実在した“武士道溢れし艦長”とは
第二次世界大戦中、当時の軍人精神からか「多くを語らず」を貫いたものの、悲惨な戦争のなかで稀に見る紳士的で、模範的なもの行動をとった艦長が存在しました。
とある艦長の逸話
2025年は第二次世界大戦の終結からちょうど80年の節目に当たります。そして時の経過とともに、当時の証言をできる世代の方も少なくなりつつあります。一方で、特に当時の軍人の中には「黙して多くを語らず」という精神を貫く方も多く、「美談を語るなど恥」という風潮もあったため、彼らの活躍は、今になってようやくその痕跡がみつかることも多くなっています。

今回紹介する日本海軍の軍人、工藤俊作も、そのような「多くを語らず」の精神を貫いた男でした。
1901年、山形県の農家の次男に生まれた工藤俊作は1923年に海軍兵学校を卒業、日本海軍の軍人としての道を歩み始めます。そして1941年12月8日以降、アメリカとの戦争状態になると、海軍少佐として駆逐艦「雷」の艦長となっており、そのまま僚艦「電」とともに香港近海において海上封鎖を行いました。
彼の軍人人生においての大きな転機はその直後にやってきました。それは1942年3月1日、マレーシア、スラバヤ沖で発生した米英豪墺との海戦、いわゆるスラバヤ沖海戦です。
このとき日本海軍はオランダ海軍のカレル・ドールマン司令率いる4か国連合艦隊と現在のインドネシアのスラバヤ沖で遭遇し、攻撃を受けたことで海戦が勃発しました。日本海軍は高木武雄司令率いる巡洋艦4隻、駆逐艦14隻の艦隊で、工藤少佐率いる雷も、この艦隊に含まれていたのです。
戦いは46時間という長時間に及びましたが、日本海軍は駆逐艦1隻を損傷しただけで、敵旗艦でオランダ海軍の軽巡洋艦「デ・ロイテル」ほか重巡洋艦「エクセター」と駆逐艦5隻を沈めるという大きな勝利をおさめます。敵の司令官だったドールマン少将も戦死しました。
連合国にオランダではなくオーストリーが入っちゃってますよ。