世界の歴史の中でも珍しい“完全勝利”日本海海戦はなにがそこまですごかった?

国内では「日本海海戦」と呼ばれる戦いは、大国ロシアの海軍に、当時新興国であった日本が勝った――という意味で世界中に衝撃を与えました。また、この争いは列強各国の艦艇の運用方法に関しても大きな影響をもたらしています。

バルチック艦隊到着前に旅順艦隊を行動不能に

 日本海軍にはまだ時間が残されていました。1904年10月にバルチック艦隊はリバウ(現:ラトビアのリエパーヤ)を出港したとはいえ、約3万3300kmの長い航海を行わなければならなかったからです。

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記念艦として公開されている戦艦「三笠」(凪破真名撮影)

 その時間の猶予を利用し、日本は太平洋艦隊の排除を狙います。同艦隊は、日本陸軍が遼東半島に上陸したのを受け、ウラジオストクに撤退しようとしましたが、1904年9月4日に発生した黄海海戦で日本海軍が阻止に成功。撤退しようとした多くの艦艇を旅順に閉じ込めます。残った艦艇も旅順要塞を攻略し、そこから砲撃を加えることで壊滅させました。

 日本海軍が太平洋艦隊と戦っている際にも、バルチック艦隊は移動を続けていましたが、その際もイギリスの妨害による補給に問題や、第2太平洋艦隊の一部戦艦がスエズ運河を通過できなかった関係で、アフリカ大陸を大回りする喜望峰経由での航行になるなどのトラブルが発生し、かなり疲弊することになりました。

 ただ、バルチック艦隊側ががかなり体力的なダメージを負っていたとしても、日本の連合艦隊はかなりの不利でした。それはこのロシア艦隊の戦艦を複数撃ち漏らし、ウラジオストク艦隊と合流されでもすれば、日本の海上輸送網は危機に瀕するのは必至だったからです。日本海軍は、極東ロシアを目指す艦艇の撃滅が不可能の場合でも、ふたつの艦隊の合流を阻止するのが絶対条件という厳しい状況での海戦をする必要がありました。

 旅順が陥落した今、バルチック艦隊が、拠点となるウラジオストクを目指すのは明らかで、日本海軍は、その途中でなんとか艦隊を捕まえて、攻撃したいと考えていました。

 そこで艦隊発見後、すぐ攻撃態勢に移れるようにと、哨戒艦艇や監視所に無線電信機を設置し、さらに陸上の拠点と海底ケーブルでつなぐという通信ネットワークを構築しました。日本海側、太平洋側に同等のネットワークを開設、また津軽海峡には機雷軍を設置し封鎖。さらに台湾周辺海域にも漁船を装いつつ、監視を行う艦艇を複数配備して監視を強化、まさに「アリの子一匹逃がさないと」いう気概が感じられます。そのうえで主力艦隊は、一番通る可能性が高いと考えられた対馬海峡周辺で待ち伏せすることにしました。

 バルチック艦隊が拠点であるリバウを出港してから、およそ8か月後の1905年5月27日未明、哨戒中の信濃丸からの「敵艦隊ラシキモノ見ユ」との一報を受け、日本海軍連合艦隊は、すぐさま出動。対馬沖の海域で敵艦隊を発見し、旗艦「三笠」にはZ旗が掲げられました。この旗は「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」の意味となります。

 日本海軍の連合艦隊は、戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦15隻を主力に、水雷艇なども含めると全108隻もの大艦隊でした。対するバルチック艦隊は戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦6隻、そのほかの艦艇もあわせて全38隻となります。補助艦艇では日本は優勢でしたが、戦艦や装甲巡洋艦などの主力艦では劣っていました。さらに、前述したように、この数の艦隊に大打撃を与えるのが日本海軍の勝利する絶対条件でした。

【破壊された船体…】これが、日本海海戦で敗れたロシア艦です(写真)

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