トライクはよく見るのに… 昭和レトロの象徴「オート三輪」なぜ廃れた? 今も新車販売してますよね
昭和のアイコンのひとつに、前1輪・後2輪のレイアウトを持つオート三輪があります。バイクと自動車の中間のような存在で、1930年代~1960年代に庶民の足として活躍しました。しかし、その後姿を消してしまったのはなぜでしょうか。
大型化と高性能化を果たしたオート三輪が戦後の復興に貢献
戦前におけるオート三輪の生産は1937年にピークを迎え、全メーカー合わせて1万5230台ほどが製造されました。しかし、これ以降は日中戦争と太平洋戦争の戦乱により、生産の縮小を余儀なくされます。

1945年8月に終戦を迎えると、荒廃した国土再建のためGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、各メーカーに対してトラックやオート三輪など復興に必要な自動車について生産再開を許可しました。それを受けていち早く製造を開始したのは、日本自動車から独立した日本内燃機、発動機製造、東洋工業の御三家でした。それらに加えてGHQの航空禁止令で市場を失った航空機メーカーも新たに参入します。これらの新規参入メーカーが、航空機製造で培った技術をフィードバックした結果、オート三輪の商品性は大幅に向上し、市場は活性化しました。
1940年代後半~1950年代にかけてのオート三輪のトレンドは、エンジンと車体の大型化でした。1947年の規制緩和で排気量制限が戦前の750ccから1500ccへと拡大。さらに、1951年の道路運送車両法改定により、全長や全幅、排気量についての制約が撤廃され、制約は排気量に応じた積載量のみになりました。750cc車は750kg積み、1000cc車は1t積み、1200cc車が1.5t、1500cc車が2tまでとなったのです。これによりオート三輪は恐竜的な進化を遂げ、1953年頃には全長6.09m、全幅1.93m、荷台長3.9mという小型トラックのサイズを上回る大型車が登場するに至りました。
同時に、オート三輪は高級化路線を突き進み、戦前までは吹き曝しだったキャビンにウインドスクリーンが装着され、やがてキャンバストップの屋根がつき、最終的にはドアがつけられた全天候型の金属製フルキャビンが備わりました。運転操作もバイク型のバーハンドルから四輪車の円形ハンドルへと変更され、始動方法はキックスターターからセルスターターへと進化しました。荷重の増大や高速化に対応するため、変速機は従来の3段式ではなく4段式が主流となりました。
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