トライクはよく見るのに… 昭和レトロの象徴「オート三輪」なぜ廃れた? 今も新車販売してますよね

昭和のアイコンのひとつに、前1輪・後2輪のレイアウトを持つオート三輪があります。バイクと自動車の中間のような存在で、1930年代~1960年代に庶民の足として活躍しました。しかし、その後姿を消してしまったのはなぜでしょうか。

昭和レトロの象徴的な乗りもの

 オート三輪とは1930年代~1960年代に活躍した前1輪・後2輪のレイアウトを持つトラックの呼び名です。実車が走行している姿を見たことがない若い世代にも、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などの映像作品に登場する姿を見て、昭和の時代の象徴として認識されているのではないでしょうか。

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1931年に誕生したダイハツ「HD型」。ダイハツが初期に製造したHA型やHB型は2輪ある後輪のうち1輪のみをチェーンで駆動していたため旋回性に難があった。このモデルからデファレンシャルを備えたことでスムーズなコーナリングが可能になった(画像:SuFlyer CC0)。

 オート三輪の利点は、メカニズムとしては四輪車ではなくオートバイと大差なく、四輪車に比べて軽量で低価格なことなどがあります。単純な構造のため保守管理が容易で維持費も安い上、積載能力にも優れ、悪路にも強く、狭い場所でも小回りが効くことから、商店の配送業務や農林水産業などで活躍しました。

 その歴史は古く、1910年代に大阪で始まったといわれています。アメリカから輸入された自転車用補助エンジンの「スミスホイールモーター」をフロントカー(前方に荷台を持つ前2輪・後1輪の貨物運搬用自転車)に取り付けたのです。のちに製造時からこのエンジンを備えた前1輪・後2輪レイアウトのオート三輪が製造されました。

 1920年代に入ると英J.A.P製オートバイエンジンを搭載し、馬力と積載性を高めたオート三輪が登場します。この頃、市場からのニーズに応えるカタチで自然発生的にオート三輪の製造会社が誕生し、零細メーカーが群雄割拠することになりました。これらの多くは外国からエンジンを輸入し、国内で製造した車体を販売していました。

 エンジンを含めた純国産のオート三輪が登場するのは1926年のことで、広島の宍戸オートバイ製作所が元祖とされています。これは家内制手工業によりごく少数を製造しただけに留まりました。メーカーによる本格的な生産は日本自動車(のちに日本内燃機へ改称、東急くろがねを経て現・日産工機)が最初で、それまでのJ.A.P製に代えて自社製エンジンを搭載した車両を1929年から生産しました。続く1930年からはオート三輪用エンジンを製造していた発動機製造(現・ダイハツ)が自社で車体製造にも着手して完成車の販売を開始し、1931年には東洋工業(現・マツダ)も市場に参入。その結果、資本力のあるこれら3社がオート三輪製造の御三家として君臨することになりました。

【軽トラが小さく見える!】これが日本最大のオート三輪です(写真)

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