ナチス・ドイツに実在した「空軍なのに戦車を使う部隊」なぜ? 独裁政権ナンバー2が “私兵”導入の経緯とは

ナチス・ドイツ時代、実質的にアドルフ・ヒトラー私兵だったSS(親衛隊)は有名です。ただナチスでは珍しいことに、有力幹部だった人物も私設軍隊と言えるものを持っていました。

精鋭部隊として各地を転戦

 半ばヘルマン・ゲーリング私設部隊ということで、隊員の選抜もかなりこだわっていました。というより独裁者であるヒトラーへの対抗心が感じられるものでした。ジェネラル・ゲーリング連隊はSSのようにドイツ国籍であり「ナチスの理想とするドイツ民族の特徴を備えていること」という点に関して共通でしたが、対象年齢に関してはSSが23~35歳までだったのに対し、ジェネラル・ゲーリング連隊は18~25歳までとより若い人材を求めていました。

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ヘルマン・ゲーリング師団のIV号戦車(画像:連邦公文書館)

 兵舎も専用のものが用意されました、若い人材への人気取りを狙ったのか、全盛期は専用の体育館、屋内・屋外プール、スポーツエリア、郵便局を持ち、制服も白い襟章と特殊部隊の袖章という特別なものが与えられました。その目立つ装いから当時の市民は街頭で歩いていてもほかの空軍将兵と区別できたといわれています。

 特別扱いを受けた実質的な私設軍隊ということで、このヘルマン・ゲーリング連隊は非常に士気が高く、各地の戦場で大きな働きをしたといわれています。

 特に第二次世界大戦の序盤、西方電撃戦においては高射砲部隊が強化され、大きな活躍を見せました。自動車化された各部隊は、戦車部隊とともに移動し、フランス占領後はパリの守護などにもあたっています。

 そしてその後も規模を拡大し、「ヘルマン・ゲーリング旅団」、「ヘルマン・ゲーリング師団」と、規模を大きくしていきます。しかし、北アフリカ戦線に派遣された影響で、チュニジアで包囲される形で大半の将兵が1943年5月12日に降伏。その後、本土で訓練していた予備兵力を再編成し、「ヘルマン・ゲーリング装甲師団」として再編。「ヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団」と名称を改めました。ちなみに空挺部隊を意味する「降下」の文言が入っていますが、降下作戦をする訳ではなく、純然たる自動車化師団でプロパガンダ的な名称変更であったという考え方が一般的です。

 とはいえ、彼らの活躍は四方を敵に囲まれた第二次世界大戦後半のドイツ軍にとっては期待すべき大きな力となりました。1944年の段階では4号戦車を中心に50両以上の戦車が配備されており、突撃砲や対戦車自走砲も多く、また最新戦車のパンター戦車もいち早く配備されました。

 そして彼らを世間的に有名にした出来事が発生します。イタリア戦線で行われたモンテ・カッシーノの戦い直前、同地の修道院から美術品を救出したことです。

【略奪目的じゃない!?】これが、美術品を安全な場所に移動するヘルマン・ゲーリング師団(写真)

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