ミッドウェー海戦で孤軍奮闘した空母…実は残した戦果はかなり大きかった?なぜ最後まで“残れた”のか
ミッドウェー海戦といえば、さまざまな作戦が裏目に出て日本海軍が惨敗し、空母を4隻も失ってしまった戦いとして記憶する人も多いと思います。しかし4隻のうち1隻が孤軍奮闘し戦果もあげています。
たった1隻で傷だらけになり反撃
反撃を決断した際、「飛龍」を指揮する第二航空戦隊司令官の山口多聞少将は乗組員に対し「帝国の栄光のため戦いを続けるのは一に飛龍にかかっている」と宣言したといわれています。

「飛龍」から組織された攻撃隊は戦果を挙げて意気揚々としていたアメリカ軍の機動部隊の空母「ヨークタウン」を発見、これに急降下爆撃を加え損傷を与えると、続く第二次攻撃隊は、魚雷3本を命中させ、同艦を航行不能とします。
ただ、「飛龍」の孤軍奮闘もここまででした。「ヨークタウン」攻撃の際に多くの艦載機パイロットを失ったためです。別の場所に出張っていた護衛の零戦を呼べないままの攻撃だったため、被害は甚大なものとなりました。
よく、この戦いで日本海軍は優秀な艦載機パイロットを多数失ったと言われていますが、ほかの3隻では不時着水するなどで難を逃れたパイロットが多く、未帰還だったのは「赤城」7名、「加賀」21名、「蒼龍」10名に留まっています。実は敵艦に攻撃を仕掛けた「飛龍」の人的被害が一番多く未帰還64名でした。
翌日「飛龍」は「ヨークタウン」の残存艦載機を受け入れた空母「エンタープライズ」に発見されると、SBDドーントレス急降下爆撃機24機による激しい爆撃を受けることになりました。この集中攻撃により「飛龍」は爆弾4発の直撃を受け、航行不能に。必死に復旧作業もむなしく、翌日6月5日未明、艦長の加来止男大佐や山口少将と共に海に沈むことになりました。
こうしてミッドウェーで大敗を喫することになりました。しかし、このとき「飛龍」が一矢報いた空母「ヨークタウン」は修理のため、真珠湾に向けて曳船に引かれて航行中に潜水艦「伊一六八」の魚雷攻撃により、沈没。これがミッドウェーの戦いで沈没した唯一のアメリカ空母となりました。
前述したように、この敗北の後でも太平洋方面に展開する海上兵力では、なお日本軍のほうが優位にありました。さらに、「飛龍」の奮戦のおかげで、空母1隻と多くの艦載機と搭乗するパイロットを失ったアメリカ海軍も、しばらく空母の集中運用はできませんでした。
いわばこの戦いの後の立て直しが重要だった訳ですが、この「飛龍」の奮戦は戦況に大きな影響を与えることはできませんでした。
結局日本軍は続く1942年8月から翌年の2月まで続いたガダルカナルの戦いで、ソロモン諸島の勢力圏維持に執着したあまり、アメリカ軍相手に多大な消耗戦を強いられ多数の艦艇や輸送船を喪失します。
さらに、同戦いに関連したソロモン諸島方面での航空戦で、生き残った空母艦載機のパイロットを陸にあげ、消耗戦を演じたため、開戦以来の優秀な艦載機パイロットも殆ど失うことになります。この敗北は決定的で日本軍は一気に敗色濃厚となりますが、その後も立て直すあてのない絶望的な戦を長く続けることになりました。
※一部修正しました(6月16日17時25分)
Writer: 凪破真名(歴史ライター・編集)
なぎはまな。歴史は古代から近現代まで広く深く。2019年現在はフリー編集者として、某雑誌の軍事部門で編集・ライティングの日々。趣味は自衛隊の基地・駐屯地めぐりとアナログゲーム。
たのしく拝読させて頂きました。
失礼ながら、飛龍の艦長は加来止男大佐で、山口多聞少将は第ニ航空戦隊司令官です。
ご指摘ありがとうございます。
記事を修正いたしました。