誰の仕業? 「紫電改」の保存機に「五・七・五」の詩、その意味とは? 極限状態で刻まれた“the Haiku”
アメリカで保存展示されている旧日本海軍戦闘機「紫電改」の機体には、日本語の五・七・五の定型句が刻まれています。いつ、誰が残したのかは不明ですが、二つの解釈ができそうです。
機体に刻まれた「Haiku」
アメリカ・フロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館に展示されている旧日本海軍戦闘機「紫電改」。この胴体に、刃物のような鋭利なもので刻んだとされる五・七・五の定型詩が残されています。博物館の公式サイトには、氏名不詳の日本人パイロットによって刻まれた俳句(the Haiku)と紹介されています。その作者が誰なのか、いつ刻まれたのかは分かりません。

紫電改は、旧日本海軍が戦争末期に投入した高性能戦闘機です。正式名称は「紫電二一型(N1K2-J)」。ベースとなった水上戦闘機「強風」から発展し、陸上型の「紫電」をさらに改良した機体です。先進的な空戦時に自動的に作動する「自動空戦フラップ」や、重武装・高出力エンジンなどを備え、速度・運動性・火力のすべてに優れた性能を誇っていました。
しかし生産が始まったのが終戦直前ということもあり、製造機数は零戦や隼と比べても圧倒的に少ない400機程度でしたが、大きな存在感を示しています。紫電改の多くは、元「台南空」のエースである源田実大佐が率い、精鋭パイロットを集めて編成された「第三四三海軍航空隊」(通称・三四三空)に優先的に配備され、優勢な連合軍を相手に最後の奮戦を見せたからです。
空対空、地対空無線の有効活用やレーダー、見張り所、司令部の情報ネットワークの構築というバックアップもあり、この戦闘機戦力の集中運用はかなり効果的でしたが、戦局は挽回できませんでした。
紫電改は連合軍のコードネームで「George(ジョージ)」と呼ばれ、「面倒な敵機」として注目されていました。終戦後、残されていた紫電改の一部は、連合軍によって接収され、中でも状態の良い3機が1945年11月、護衛空母USSバーンズに搭載されてアメリカ本土へ送られ、技術調査や飛行試験の対象となりました。
アメリカに引き渡すため、松山基地から横須賀まで旧三四三空パイロットの操縦で飛んだ際にイタズラで全速飛行したところ、アメリカ製のハイオクガソリンと非武装で軽かったこともあり、監視に随伴したアメリカ海軍戦闘機を引き離すという高性能ぶりを発揮して、アメリカ軍のパイロットを慌てさせたというエピソードも残っています。
スミソニアン博物館に展示されている紫電改の説明文には「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」と表示されています。
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