兵庫県のポツンと「紫電改」見てきた! 日米の機体見比べたら「かつての敵国の方が評価してんじゃん!」
太平洋戦争中に旧日本海軍が運用した戦闘機「紫電」と、改良型の「紫電改」は新明和工業の前身である川西航空機が設計、製造しました。最終的に組み立てる工場が設けられたのは、意外すぎる場所でした。
零戦の代替機として、水上戦闘機ベースで誕生した「紫電」
兵庫県加西市の見学施設「加西市地域活性化拠点施設soraかさい」に、「紫電改」という陸上戦闘機の実物大模型が展示されています。太平洋戦争中に旧日本海軍の「紫電」(紫電一一型)と、改良型の「紫電改」(紫電二一型)を設計、製造したのは川西航空機という会社で、現在は飛行艇などの輸送関連機器を製造する新明和工業(兵庫県宝塚市)の前身です。

川西航空機最初の陸上戦闘機「紫電」は1943年9月に量産が始まり、「零戦」(A6M 零式艦上戦闘機)に代わる機種として1007機が製造されました。水上戦闘機「強風」をベースにし、エンジンは「強風」に装備されていた「火星」よりも最高出力を20%向上させた中島飛行機(スバルなどの前身)製の「誉」に変更。陸上戦闘機とするためにフロートを外し、主脚と尾輪を取り付けました。
「強風」は胴体の中央付近の高い位置に主翼を取り付けることで、空気抵抗の低減が図られています。「紫電」を製造する際、主翼が高い位置にあることから主脚を長くする必要がありましたが、それだと畳んでも翼内に収容できません。そこで、対策として離着陸時に油圧機構で主脚を伸縮させる構造を採用しました。しかし、油圧機構が故障したり、主脚が壊れたりするトラブルが頻発するなど、「紫電」は信頼性に難がありました。
そうした問題を解消すべく大幅に改良を加えた結果、エンジン出力は約2000馬力、最高速力は630km/hと「誉」のスペックを発揮するに至ったのが「紫電改」です。主翼の位置を胴体の下端部に変えることで主脚の長さは1724mmと、「紫電」の2051mmから短縮。これにより主脚の強度が向上しました。また、胴体を約46cm長くし、方向舵を垂直尾翼から胴体下端部へ伸ばすことで空中での運動性と操縦性を改善しました。
1943年12月に試作機が完成しましたが、生産態勢を整えるのに手間取って量産開始は太平洋戦争末期の1945年にずれ込みました。そのため、終戦までの生産機数は415機にとどまりました。
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