「つくばエクスプレス」が「JR常磐新線」にならなかったワケ 「当社は手を引くだけ」 いまや黒字の優等生路線

開業20周年を迎えたつくばエクスプレスは、安定した収益・利益を上げる路線に成長しましたが、かつて「常磐新線」「常磐開発線」と呼ばれていた頃は、国鉄が検討していた路線でもありました。民営化後のJR東日本が、この計画から撤退した経緯を探ります。

国鉄も「常磐開発線」を検討していた

 その頃、高度成長を経て首都圏はドーナツ化現象が加速し、郊外の人口が急増していました。常磐線の利用者も急激に増加し、激しい混雑が起きていたことから、常磐線の混雑緩和と、筑波を含む交通空白地帯を解消する「第二常磐線」あるいは「常磐新線」と呼ばれる新線構想の検討が始まりました。

 公式の検討は1978(昭和53)年に公表された「茨城県・県南県西地域交通体系整備計画調査報告書」で、「都内―水海道―学園都市―石岡―水戸」新線の必要性が提起されたことに始まりますが、国鉄の資料によればその数年前から、筑波学園都市と連動した新線建設を部内で検討していたことが分かります。

 国鉄は1960年代以降、「通勤五方面作戦」に代表される需要追随型の鉄道投資を進めてきましたが、複々線化など既存路線の増強はかえって利用を集中させました。そこでポスト五方面作戦として、都市計画とタイアップした都市開発型路線である「開発線」計画を立案しました。ここでは「常磐新線」は「常磐開発線」と呼ばれました。

 1980(昭和55)年の国鉄部内講演会で、東京第一工事局調査課の担当者は「ゆとりある新市街地の形成」「東京都心一極集中の是正」の政府方針に言及し、常磐開発線は「このような施策を具体化する受皿として格好の条件を備えて」いると述べています。

 さらに「首都東京の救済をはかるという面からも、また大都市圏の旅客輸送は今後とも国鉄経営の大きな柱であるという認識からも(略)常磐開発線プロジェクトを積極的に推進する必要がある」として、国策遂行の意義を述べています。

 これら検討を背景に、1985(昭和60)年の運輸政策審議会答申第7号は、最終的な経路と同様「東京―秋葉原―浅草―北千住―八潮市南部―三郷市中央部―流山市南部―守谷市南部―筑波研究学園都市」の「常磐新線」を答申しました。

【どこ目指す?】「秋葉原から」「つくばから」のTX延伸ルートを見る(計画図)

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