「つくばエクスプレス」が「JR常磐新線」にならなかったワケ 「当社は手を引くだけ」 いまや黒字の優等生路線
開業20周年を迎えたつくばエクスプレスは、安定した収益・利益を上げる路線に成長しましたが、かつて「常磐新線」「常磐開発線」と呼ばれていた頃は、国鉄が検討していた路線でもありました。民営化後のJR東日本が、この計画から撤退した経緯を探ります。
JR東発足で「風向き」一転
ところが1987(昭和62)年にJR東日本が発足すると、巨大プロジェクトである常磐新線は民営企業の立場から再検討することになりました。松田昌士常務取締役(当時)は1989(平成元)年の『運輸と経済』で、下記のように指摘しています。
(1)バブル経済で地価が高騰する中での建設のリスクが大きい
(2)そのことで沿線開発が遅れ、長期間にわたって採算がとれない可能性が強い
(3)公的助成、地方公共団体等の支援措置が具体的でない
その上で、3セクを設立しても役割がはっきりせず、資本金を食いつぶして解散するだけになりかねないとして、出資要請を拒みました。そこで運輸省と沿線自治体は、整備主体は公的セクター、運営主体はJR東日本として、同社のリスクを軽減する上下分離スキームを取りまとめ、翻意を促します。
また、1989(平成元)年6月には常磐新線を念頭に、まちづくりと鉄道整備を一体的に進める「大都市地域における宅地開発及び鉄道整備の一体的推進に関する特別措置法(宅鉄一体化法)」が成立しますが、JR東日本は翌年、運営主体となることを正式に辞退。常磐新線は3セクが整備する方向に決まりました。
新生JR東日本は実質6.6兆円の長期債務、1.5万人の余剰人員を背負ってのスタートであり、足元では輸送力増強、ATS-P導入など安全対策を急ぐ必要がありました。巨額な資金を要し、採算性も疑問とされる投資には慎重とならざるを得ないのは、同社の立場では当然でした。
松田氏は「国鉄時代においては、公共性の名の下に不採算な投資が行われ、それが経営状況を悪化させる一因となった」として「条件が合わなければ当社はこの問題から手を引くだけであるし、それが民間会社の特権である」とも述べています。
JR東日本にとって常磐新線からの撤退は、同線の整備に国策上の意義を強調した国鉄との決別を意味していたのかもしれません。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
コメント