「アンカレッジ」なぜ聞かなくなった? 日本に縁深かった空路の要所、その「いま」
経由するにも、なぜ「アンカレッジ」なのか
時代をさかのぼって1950(昭和25)年ごろ、日本と欧州をつなぐ空路は、領空の制限によりソビエト連邦(当時)の上空を通るシベリアルートが使用できず、アジアを経由していく南回りルートに加え、北極圏を通る北回りルートが使われていました。これらのルートは遠回りで時間がかかるうえ、当時の航空機は航続距離が十分なものではありませんでした。
JALが1966(昭和41)当時、ニューヨーク線で運航していたDC-8型機で見ると、その航続距離は8700km。現在、同じ路線で運航されている777-300ER型機の1万4340kmと比べ、その差は歴然です。当時のように航空機の航続距離が長くなかった時代、日本から欧米へ向かう旅客便は、一度アンカレッジ国際空港に寄港し、燃料補給を行なってから北極圏を通過するルートをとっていたのです。
その後、日本とソビエト連邦とのあいだで行われた航空交渉の結果、1972(昭和47)年よりJALがシベリアルートの運航を徐々に開始。1990年代初頭に冷戦が終結すると、旧ソ連政府は「領空通航料」を外国機から徴収するため、シベリアルートを積極的に開放するようになります。JALもまた、1991(平成3)年には、アンカレッジ経由の北回り欧州線を完全に廃止しました。
このような事情から、1990年代初頭に至るまでは、アンカレッジ経由便が数多く運航されていました。同空港で乗機が燃料の補給中、その旅客はいったん降機し、ターミナル内の免税店やレストランなどで2時間ほど過ごすスケジュールでしたが、これが面倒だったという人もいれば、実は楽しみだったという声もちらほら聞こえ、いまでもそんな当時を懐かしむ人さえいます。利用の多かった日本人客のためか、片言でも日本語を話す従業員が多く見られ、お世辞にも美味しいとはいえないうどんなどの和食メニューでも、長時間のフライトのあいだについつい手を伸ばしてしまった、という話も聞きました。
現在は、旅客機の技術やエンジン性能の向上によって航続距離が伸び、世界中のほとんどの主要都市へ直行便が運航されています。こうして、日本において「アンカレッジ」という地名は、あまり聞かれなくなっていきました。
一目瞭然
地図凄い
B747-200に "LR" と言う機種はありません。ジャルのJFK行き直行便はB747-200BのエンジンにJT-9の後期高出力型を使い燃料搭載量を増やした型です。
日本・アメリカ・欧州、各々の時差が大きく、時差ぼけがキツかった記憶が…
欧州からの帰国便、日本食が懐かしく“うどん”に飛んでいった思い出が残っています♪
ロビーに有った免税店、日本人の添乗員でも登録すれば、お客さんの売上高に応じた「おこずかい」を頂けた懐かしい時代です。
今から31年前にヨーロッパへバックパック旅行した時、飛行機がアンカレッジで給油するために降りた。空港にすごく大きくて迫力のあるシロクマの剥製があったことを今も憶えている。
30年くらい前でしょうか、シロクマは立ち姿で人間の身長より高かったような記憶あります。
あぁ、思い出した…
ありましたね、ポーラーベアの大きな剥製。
26年前、仕事のためアンカレッジに赴いたときに見ました。
思い出させてくれて、ありがとうございます。
あのうどん屋ですが、閉店の後にシアトル・タコマ空港に移転したってことはありませんか?
25年ほど前、シアトルで乗り継ぎをしたときにタコマ空港内をうろついていたら、お汁の香りが…。思わず見回したら赤提灯を下げた同じようなうどん屋があったのでしたのです。
懐かしい気持ちで早速うどんをすすったのですが、出汁の利いていないダシの不味さやポツンと乗る鳴門巻きはアンカレッジのあの店と同じように思えました。
ご存知の方、いないかな・・・
大韓航空でソウルから、チャイナで台北から直行便があり利用しました。今はなくなり米国本土、ハワイからの乗継でしょうか?5~6回行きましが、景色が素晴らしく落ち着いた町が好きです。免税店で働いていた日本人とも仲良くなりましたが?機会があれば再訪したいところの一つです。
アンカレジ経由、懐かしい響きですね。
赤提灯のうどん懐かしいね。
うどん!懐かしいですね。
帰国の途中にあれを食べるともう半分日本に帰って来た感じの安堵感。
特別に美味しくはないし高かったけれどなんとも言えない安心感。
食べ物って人に笑顔を与えます。^^
平成元年6月20日アンカレッジ経由で移住の為イギリスに向かった時に,
アンカレッジでシンクロナイズドスイミングの小谷実可子さんに遭遇した思い出があります。
小谷さんもヨーロッパに遠征に行かれる時でした。
残念、正距方位図法とするなら、中心をアンカレッジにすべきだったな。地図載せた人、わかっていないね。
「初めての外国」=「アンカレッジ」の年代には、懐かしいですね〜。
日本から北米への路線では、当地時間で真夜中近くに着くことが多かったので、満天の星空が印象的でした。
日本人観光客目当てに、ヘンテコな土産物がたくさん並んでいました。
日本人の男性(ほぼ全員男性!)がラーメン屋に長〜い列を作って並んでいたのも印象に残っています。
当時この空を飛んでいた祖父のことを少し知れた気がします。ありがとうございます。
初めてのドイツ出張アンカレッジの大きなしろくまの剥製あれから40数年なつかしいですねー
シロクマは、多分同じもの?新千歳空港に送られ、飾ってあったが⁉️
けんさんの言う通り、新千歳空港の、国際線の通関後の通路にあったこ記憶しています。
アンカレッジ経由でヨーロッパに行くと、北極圏通過証明書が発行されました。
こないだオーロラ見に行くのに
シカゴ~アンカレッジ経由で
利用しました。
空港はとても綺麗で賑わってましたね。
帰りは飛行機からもオーロラ見えました!
最初の渡米の時、パンナムでアンカレッジ経由でした。
空港の中、毛皮のコート着た人や、半袖の人が入り乱れていてびっくりしました。
当時、航空券に航空会社のロゴが付いたショルダーバッグが付いてきました。
又、予防注射の証明書(イエローブック)や、パスポートに外貨の支払い証明が必要でした。
しかも外貨の持ち出しは、一人500ドルの制限がありました。
我社は輸出貢献企業でしたのでこの制限以上持ち出し出来ました。
欧米方面の海外旅行に行った事無いので全く馴染みはありません。
2000年頃にデトロイトから乗った年末の便が、アンカレジに降りたことがありました。
なんで??と思ってたら、フィリピン行き乗客の荷物が大量すぎて燃料が不足したための給油でした。
荒涼とした機外の風景を見て、久しぶりに降りたなぁと懐かしく感じたのを思い出しました
60年代と70年代によく日本に行くときに経由した覚えがある。空港内にはうどん屋があってあ~~もうすぐ日本だと思ったことを思い出す。その後は直行便ができたのでアンカレッジなんか忘れていたなーーー。
一度一泊した覚えがありその時は夏なのでレストランで飯を食って外に出たら夜中なのにあかるかってびっくりしたなーー。懐かしい。
懐かしかったです。アンカレッジ経由が無くなってるとは知りませんでした。北回り南回りという言い方ももう無いのかな、時代の移り変わりを分かりやすく読ませて頂きました。
アンカレッジを経由してソウルに向かうKAL機がシベリア半島に迷い込み、「領空侵犯」としてソ連機に撃墜されたのもだいぶ昔の話ですね(1983年9月1日)。
今じゃIBEXがCRJ700を受領するのにユジノサハリンスクを経由したり、中国から北米大陸結ぶ飛行機がシベリア半島どころかロシア上空を通過するという時代……。
1974年 19歳の時ヨーロッパを回って見たくてJALのDC10でアラスカ経由でアンカレッジ経由パリに乗りました、当時はアンカレッジまで9時間、給油等で1時間のトランジェット、初めて見る外国がアラスカでした、
10月でしたがまだ雪もなくただ海がとても綺麗なブルーだったのを覚えています。当時行かれた方は思い出すかもしれませんが うどん 千円でした当時のドルは260円の頃です。その後3度アンカレッジ経由で3度ヨーロッパへ行きました。オーロラを2度見れたことが一番の思い出です。 いつもうどん食べてました。
アンカレッジ空港・・・初めて渡欧した1978年11月にJAL423便、LHR行でトランジットしました。
以降、大韓航空, サベナ・ベルギー航空, スカンジナビア航空, 英国航空, エール・フランスでも寄港、ターミナルは華やかな雰囲気でした。白熊のはく製、アラスカうどんも懐かしい。
あの頃の海外訪問は、何か特別なものがありましたね (^^)
出来る事なら、また同じルートでヨーロッパに行ってみたいなぁ。
下記、旅行記・・・1978年の初めてのヨーロッパ紀行です。JALの旧塗装も懐かしい♪
https://4travel.jp/travelogue/11173292
昔の旅客機は性能から太平洋超えられないから
アメリカ東海岸から離陸して
アラスカの「アンカレジ」で給油しなければ
ならなかった
しかし現在はジェットエンジンの性能や
信頼性があがり
ETOPも380とかになり
双発機でも太平洋無着陸飛行が可能になった