【都市鉄道の歴史を探る】浮かんでは消えた「都営地下鉄」構想 「営団」廃止の主張も
東京の地下鉄は現在、民営9路線と公営4路線で構成されています。公営の地下鉄は終戦から15年後に開業していますが、実は戦前から計画と挫折を繰り返していました。どのような経緯で戦後まで「先延ばし」されたのでしょうか。
不採算路線を押しつけられた?
東京都交通局が運営する「都営地下鉄」は、民営化以降派手なプロモーションを仕掛けている東京メトロに比べ、どうしても地味なイメージを持たれがちです。
メトロの9路線195.1kmに対して都営は4路線109 kmと規模は半分ですが、1日平均の利用者数(2016年度)はメトロ720万人に対して都営260万人と3分の1強に過ぎません。路線もどことなく中心部から外れた場所を走っているような印象を受けます。
1960(昭和35)年の開業以来46年間連続赤字を記録し、2006(平成18)年度にようやく黒字化したという経緯もあり、「都営だからあえて不採算路線を建設した」とか、「営団からもうからない路線を押し付けられた」とか言われることもあります。
東京都はどのような構想をもって地下鉄事業に参入し、どのようにして都営地下鉄が誕生したのでしょうか。
路面電車から始まった東京の公営交通
東京の馬車鉄道や路面電車は民間企業によって建設されましたが、物価高騰や増税による運賃値上げが市民の反発を招き、値上げ反対集会の参加者が暴徒化する事件まで発生しました。大阪では市営電車が成功していたこともあり、東京でも路面電車を市営化することで運賃抑制と新線建設促進を両立させようという声が高まり、ついに1911(明治44)年に東京市が民営路面電車会社を買収し、「東京市電」が誕生します。
ところが、第1次世界大戦の影響で日本の商工業が急激な発展を迎えると、東京の都市人口も急激に増加して交通需要が増大。市電は「いつまで待っても混んでいて乗れない」とまで歌われる大混雑となりました。
こうした状況を打破しようと立ち上がったのが、のちに「地下鉄の父」と呼ばれる早川徳次でした。早川は地下鉄の免許申請に先立つ1917(大正6)年1月に東京市長を訪問し、東京市自ら地下鉄を建設、運営するつもりがあるか確認します。
当時の奥田義人市長は「東京市は電車市営化のために膨大な市債があり、未開業線57マイルの建設に3000万円を要するほか、上下水道、道路修築、学校建設、港湾整備に多大な資金が必要なため、地下鉄道のような大事業は市ではできない」としたうえで、「むしろ営利事業として成立するなら民間に委ねたい」と回答していました。
ところが1919(大正8)年に入って内務省が東京市区改正委員会に地下鉄路線網の検討を命じると、東京市は一転して市営地下鉄建設に積極的な姿勢を示します。1920(大正9)年1月に最初の地下鉄整備計画となる「高速度鉄道路線網」が告示されるなど、市営地下鉄の実現に向けた機運が高まりますが、同年3月に世界大戦の反動不況が到来し、計画は頓挫してしまいました。
これは独自の地下鉄建設計画を進めていた早川徳次率いる東京地下鉄道も同様で、会社設立資金の不足を補うために、1922(大正11)年9月に後藤新平東京市長に対して「東京地下鉄道への出資による事実上の市営化」を提案していますが、東京市の経済事情では困難であると断られています。
このように路面電車市営化から10年間は、地下鉄整備の必要性は認識されつつも、財政上の高いハードルに阻まれて議論が一進一退する状況が続きました。
構想の浮上と挫折を繰り返す
大きな転機となったのが、ちょうど1年後の1923(大正12)年9月に発生した関東大震災です。
震災復興は土地区画整理と道路の拡張に主眼が置かれ、地下鉄計画は資金不足により復興事業そのものからは除外されました。しかし、東京市は復興計画と連携した本格的な地下鉄整備の検討に入ります。震災以前から東京の郊外化が始まってはいましたが、震災により危険な都心を離れて環境の良い郊外に移り住む人が増え、その流れが決定的となっていたためです。
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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx