【都市鉄道の歴史を探る】都営三田線の顛末 「乗り入れ先」に踊らされた計画ルート

東急目黒線との相互乗り入れを行い、数年後には相鉄線への乗り入れも想定されている都営三田線。しかし、かつて計画されていた乗り入れ計画は突如中止となり、乗り入れ路線がない「孤立路線」になりかけたことがありました。その歴史をたどってみます。

歴史に翻弄された「孤立路線」

 都営三田線が東京メトロ南北線と一部区間で線路を共有する形で目黒延伸を果たし、東急目黒線との直通運転を開始してから18年が経過しました。

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都営三田線の高架区間を走る6300形(2018年7月、草町義和撮影)。

 私鉄線や都営地下鉄の他路線と接続していない「孤立路線」というイメージはすっかり払しょくされたばかりか、2022年度下期には日吉から新横浜、羽沢横浜国大を経由して相鉄線の西谷駅までを結ぶ相鉄・東急直通線の開業が予定されており、今後ますますネットワークが拡大する模様です。

 そんな都営三田線は、東京の地下鉄13路線のなかで最も歴史に翻弄(ほんろう)されてきた路線といっても過言ではありません。同線がまだ「都営6号線」と呼ばれていた時代の悲運のストーリーを振り返ってみます。

東西線「本線」の建設を目指すが…

「【都市鉄道の歴史を探る】浮かんでは消えた『都営地下鉄』構想」で取り上げたように、東京の公営地下鉄計画は戦前から何度も浮上しては挫折を繰り返し、ついには地下鉄建設の役割を国が主導する帝都高速度交通営団に奪われてしまいます。実際に地下鉄建設への参入が認められたのは、戦後の1956(昭和31)年のことでした。

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都市交通審議会の第1号答申に盛り込まれた地下鉄路線(第1号答申を参考に枝久保達也作成)。

 当時未着工の路線が1号線、2号線、5号線の3路線あり、地下鉄網を早期に完成するためには、交通営団が単独で3路線を建設するよりも、東京都に1路線を任せた方がより早く完成できるということで、営団はやむなく1号線の地方鉄道免許を東京都に譲渡しました。

 こうして都営1号線(現在の都営浅草線)は1958(昭和33)年に着工し、1960(昭和35)年12月に押上~浅草橋間を開業します。

 東京都は1号線に続いて新たな路線を建設したいと意気込みます。1960(昭和35)年3月、東京都議会は地下鉄建設を促進するために、5号線本線(中野~東陽町間15.8km)とその分岐線(大手町~下板橋間8.4km)についても都に建設させるようにとの意見書を決議しました。本線はその区間からも分かるように、現在の東京メトロ東西線に相当する路線です。

 これを受けて交通局長は営団本社を訪ね、5号線の免許を東京都に譲渡してほしいと要請しました。

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1960年ごろの地下鉄整備計画とその進ちょく状況。東京都は5号線の計画を営団から譲り受けようとしていた(都市交通審議会第1号答申などを参考に枝久保達也作成)。

 しかし、営団にとって残る未着工路線は5号線だけであり、これを譲渡すると建設する路線が無くなってしまいます。営団技術陣の協力を得てなんとか建設工事を進めている東京都が、地下鉄整備を目的に設立され技術と経験を有する営団から仕事を奪うのでは本末転倒です。

 営団は既に5号線の調査設計を進めており、1961(昭和36)年度から土木工事に着手する予定で準備を進めていました。分岐線についても下板橋で東武東上線と接続することで、丸ノ内線の混雑緩和を図りたいと考えていたことから、営団は路線の譲渡はあり得ないと突っぱねました。

「分岐線を譲ってください」営団に要請

 営団の設立に強硬に反対し、戦後すぐに営団廃止運動を展開した東京都からすると、そもそも営団が地下鉄を奪ったという反発もあり、ようやく都営地下鉄を実現させたという自負もあります。また激化の一途をたどる通勤地獄に、地方自治の観点から早急に手を打たなければならないという焦りもありました。

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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