【都市鉄道の歴史を探る】スペーシアとロマンスカーが並んだ? 東武の都心直通構想

東武鉄道は東京都内でも有数の観光地・浅草にターミナルを設けていますが、あまり長い編成が入れないという問題を抱えています。しかし、創業時の東武は別の場所にターミナルを設け、都心に直通するつもりでした。

「狭い浅草駅」に悩まされてきた東武

 東武鉄道の伊勢崎線(東武スカイツリーライン)は、東京の大手私鉄の本線系路線のなかで唯一、山手線に接続していない路線です。ターミナル駅の浅草へは、線路が高架橋で隅田川を超え、急曲線でビルのなかへ入っていく構造になっています。

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現在は東京メトロ半蔵門線と相互直通運転している東武スカイツリーライン(2017年7月、草町義和撮影)。

 このためホームの有効長が短く、原則として6両編成しか乗り入れできません。 通勤輸送の主力となる10両編成の列車は、浅草駅には向かわずに曳舟から押上を経由して地下鉄半蔵門線に直通運転しています。2003(平成15)年に直通運転が始まるまでは、終点のひとつ前の業平橋(現在のとうきょうスカイツリー)駅で折り返し運転をしていました。

 駅の規模からしても利用者数からみても、実質的なターミナル機能はJR常磐線と接続する北千住駅が担っており、都心へのアクセス機能は地下鉄への直通運転に頼っている異色の本線系路線です。

 東京でターミナルに苦労した路線といえば「新宿や有楽町も目指した! 京成が考えた戦後の都心直通構想」でも取り上げた京成電鉄も同様です。押上を起点とする京成電鉄は、市内乗り入れを実現すべく浅草延伸計画を進めますが、東武鉄道との競争に敗れて断念。代わりに上野線を開業して日暮里、上野に進出した歴史があります。

 ところが、敗れた京成電鉄は結果的に、山手線と接続する上野~日暮里間は空港連絡特急、押上は地下鉄直通列車とターミナルをふたつ得ることに成功したのに対し、勝った東武は浅草駅のターミナルとしての限界に長く悩まされることになります。

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浅草駅は原則として6両までの編成しか入れない。ホームの先端は幅がひじょうに狭いうえにカーブしている(2011年4月、草町義和撮影)。

 東武鉄道が開業以来模索し続けた、都心ターミナルの歴史について振り返ってみましょう。

越中島を目指した創業時代

 東武鉄道の歴史は1895(明治28)年、東京の千住と栃木県足利町を結ぶ鉄道敷設免許を申請したことに始まります。1880年代に現在のJR東北本線(宇都宮線)と高崎線が開業。1888(明治21)年には小山と前橋を結ぶ両毛鉄道も開業しますが、この3路線に囲まれた地域は広く、鉄道の恩恵が及ばない地域も多く残っていました。

 そこで東京の北東部から日光街道に沿って北上し、杉戸から両毛線の中間地点である足利に向かう路線を建設することで、沿線の殖産興業を推進しようと計画されました。これが東武伊勢崎線の興りです。

 東武鉄道は当初、都心側のターミナルを越中島に置きたいと考えていました。越中島は確かに都心のすぐ近くではありますが、幕末には江戸防衛の拠点として砲台と西洋式の砲術を学ぶ練兵場が築かれ、明治になってからは商船学校が開かれた場所です。ターミナル駅が置かれるイメージはあまりありません。

 実際、東武鉄道の狙いは旅客輸送ではなく貨物輸送にあったようで、越中島を起点に定めた理由のひとつに、当時計画されていた東京貿易港整備への期待を挙げています。ただし越中島から先、京橋、新橋方面に延伸し、都心進出と東海道線への連絡も考慮されていました。

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東武鉄道が初期に考えていた建設ルート。越中島にターミナルを置き、さらに東海道線への連絡も考えていた(『東武鉄道六十五年史』などを参考に枝久保達也が作成)。

 東武鉄道は1899(明治32)年8月、第一期区間として北千住~久喜間で営業を開始。1901(明治34)年に北千住から亀戸を経て越中島へ至る12.9kmの路線延長計画のうち、ひとまず北千住~吾妻橋(現在のとうきょうスカイツリー)間を着工し、翌1902(明治35)年に開通します。

「誤算」を機に越中島から浅草へ

 続いて1904(明治37)年4月、曳舟~亀戸間3.4kmを開通させるとともに、亀戸から総武鉄道(現在のJR総武本線)への直通運転を開始、既に路面電車が開業して都心へのアクセスに優れた総武鉄道両国橋(現在の両国)駅を「借り物」のターミナルに据えました。

 東武線が現在のJR両国駅まで乗り入れていたと考えると不思議な光景ですが、このときはまだ鉄道国有化前で、東武鉄道と総武鉄道の経営陣の関係が深かったことから実現したものです。総武鉄道も東武の越中島延伸が実現した際には、千葉からの貨物輸送を乗り入れさせる計画があったようです。

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亀戸~越中島貨物間を結ぶ総武本線の貨物支線(越中島貨物線)。東武の計画に近いルートで線路が敷設された(2014年6月、草町義和撮影)。

 しかし、東武鉄道には3つの大きな誤算がありました。

 ひとつは利根川を渡る橋りょうの建設費を賄えず、久喜から先への延伸がなかなかできなかったこと。もうひとつは1906(明治39)年に鉄道国有法が成立し、総武鉄道が国有化対象となってしまったこと。そして総武本線より南側の市街化と工業化が進み、用地買収が困難になってしまったことです。

 北千住~越中島間のルートを見ると、市区改正事業が行われている東京市域を避けて、回り込むように越中島を目指していることが分かります。しかし、市内に入って越中島に向かう海岸沿いで急速に工業地域化が進んでしまったのです。

 越中島延伸は絶望的となり、総武鉄道の国有化により仮ターミナルの両国橋駅からも撤退することになりました。そこで東武鉄道は、いったんは廃止した曳舟~吾妻橋間を復活させ、吾妻橋駅を「浅草駅(初代)」に改称して当面のターミナルにすることにしました。

 吾妻橋は隅田川を渡れば東京一の繁華街・浅草という立地であり、最初の開業時にはまだなかった路面電車が1910(明治43)年に開通して、市内へのアクセスが大きく改善していました。また、鉄道で運び込まれた貨物を舟運に積みかえ、北十間川から隅田川、中川を通って各地に輸送が可能な水運の要衝でもあり、旅客と貨物の両面で使い勝手のいいターミナルになったのです。

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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