なぜそこで線路が途切れる? もっと先に延ばせそうな鉄道、本来の計画は

鉄道路線のなかには、すぐ先に交通の要所や規模の大きい市街地などがあるにも関わらず、少し手前で線路が途切れているものもあります。延伸すれば便利になって利用者が増えそうなものですが、なぜ延伸しないのでしょうか。

延伸計画の中止で中途半端に

 市街地や交通の要所の手前で、線路が途切れている鉄道路線があります。

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京急久里浜線の三崎口駅は三崎の中心地から約4km離れている(2011年11月、草町義和撮影)。

 京急電鉄が運営する久里浜線の終点、三浦半島南部の三崎口駅(神奈川県三浦市)は、「なぜこんなところで線路が途切れているのか」と、よく話題になります。この駅は三浦漁港で知られる三浦市三崎地区から北へ約4km離れたところにあり、三崎の中心部に向かうにはバスに乗り換えなければなりません。

 京急は、わざと三崎の北外れに終着駅を建設したわけではありません。もともとの計画では、三崎地区の中心部に乗り入れるはずでした。しかし、地形が険しく工事に時間がかかることや、用地の買収が難航したことなどから、線路が建設できた範囲で最も三崎に近い場所に終着駅を建設したのです。いまでも延伸を希望する声はあるものの、京急は延伸計画を凍結しており、再始動のめどは立っていません。

 渥美半島(愛知県豊橋市、田原市)を横断する豊橋鉄道の渥美線も、地図を見る限りでは中途半端な印象を覚えるかもしれません。同線は新豊橋駅(東海道新幹線などが乗り入れる豊橋駅に隣接)から渥美半島に向けて進みますが、半島のほぼ中央に位置する三河田原駅が終着駅。ここから半島先端側の中心地である福江地区や、志摩半島へのフェリーが発着する伊良湖岬に向かうなら、バスを使う必要があります。

 渥美線も、かつてはもっと先に線路が延びるはずでした。豊橋鉄道の前身である渥美電鉄が延伸を計画したものの、資金不足の影響で1934(昭和9)年に中止。続いて戦時中には国鉄が軍事輸送を目的に着工しましたが、これも戦局の悪化に伴い中止されました。築堤や橋台などの遺構がいまも残っています。

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コメント

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16件のコメント

  1. 都営浅草線が西馬込で終点になったのは、池上線との競合を嫌がった東急が運輸省に働きかけた…というウワサも聞いたぞ。

  2. 冒頭の「要所」は「要衝」が正しいと思われます。

  3. 京急は森林の伐採を懸念した住民のエゴでしょうね。
    三崎港まで行っていたらもっと活性化していたはずです。

    •  何でもかんでもエゴで片づけるのは?

  4. 一見そこで途切れているようには見えないないですけど上総中野駅もこの話題の仲間でしょうか。五井から安房小湊を目指した小湊鉄道、大原から木更津を目指した国鉄木原線(現いすみ鉄道)それぞれの建設途上の暫定終着駅がぴったり一致してしまったケースですから。

  5. 埼玉高速鉄道の浦和美園駅から「埼玉スタジアム」までの間は車両基地のためか線路は敷かれているので、臨時ホームを作れば試合開始時に降車専用として便利になる気がするのですが……
    乗車時は浦和美園まで歩いてもらったほうが、安全面からも、ファンの頭を冷やすためにもいいので、あくまでも「降車専用」なら設備投資も抑えられるのではないでしょうか。

    • 埼玉高速鉄道は浦和美園から先の岩槻までの延伸計画があるが採算が見込まれないのでなかなか着工に至ってないという事情があるから、唯一乗降客が見込まれる埼スタ近辺に中途半端に仮設駅を作ってしまうと「これでもういいじゃん!」と延伸を打ち切られるのが怖いからではないでしょうか。

    • 東急も18m車と20m車の争いで結局営団と東武負かしたぐらいですからね。

  6. 西馬込の話は腑に落ちないなぁ……別に車両基地が終点でなくても大きな不都合は無いと思う。
    例えば丸ノ内線は終点でない上に本線から分岐した支線の中野富士見町に車両基地がある。

  7. 西武新宿駅も本来なら歌舞伎町駅と称したほうがいい駅。新宿ルミネまで延伸計画があったため、西武新宿駅からJR新宿駅までの道には奇妙な空間が出来ていますよね。ほんと不便。

  8. 豊橋鉄道渥美線は戦中まで黒川原迄あったと思いますが、執筆者がご覧になられたのはその遺構ではなかったでしょうか?

  9. 横須賀線の終点久里浜駅、その先に踏切がある。さらに南へ行くはずだったのかな。

  10. 京急は三崎口から油壺への延伸を予定していたことはありませんでしたか?そんな点線が描かれた道路地図を持っていますが、どのみち鉄道の終点がその位置では三崎の市街地へは近くはなかったですね。

  11. かなり昔に市販されていた手帳の路線図を見てみると「油壺」の表記がありました、当時の京急の思いが伺えます。

  12. 千葉県の「芝山鉄道」も、「芝山千代田」から九十九里方面へ延伸する計画がありましたね。
    そちらは、高架橋が途切れた形になっています。

  13. 浅草線(1号線)は営団が馬込駅までの免許を持ち、車庫も馬込駅北の中馬込に作る計画でした。ところが昭和32年に、都が免許を譲り受けたものの、車庫予定地は営団の社宅になってしまったので、やむを得ず都は空き地のあった西馬込に車庫を作ることになりました。この時は駅の新設計画はありません。ところが、車庫を売る地主たちが駅を作れと交渉し、西馬込に駅が出来ることになったのです。なので、途切れているのではなく、車庫を作ったので駅も作ったということです。北綾瀬や方南町と同様の経緯かと。
    そして、70年代、大田区議を中心に票集めのためか蒲田方向への延長の運動が盛んになりましたが、延長される第二京浜地下に共同溝が施設され、そのうち有耶無耶になりました。
    上記は、馬込村に住んでいるものの視点です。東急やその他民間会社、政治的な思惑は存じません。