戦艦「山城」の役得 日本海軍悲願の国産超ド級戦艦 扶桑型の2番艦が担った役割とは?

トライアンドエラーの連続だった「扶桑」と「山城」

 1911(明治44)年、扶桑型の計画が手探り状態で始まります。「山城」の予算が付いたのは1914(大正3)年のことでした。

扶桑型はコンセプト決定段階からトライアンドエラーの繰返しで、計画案はなんだかんだと35種類もあったといわれています。それでも設計成った扶桑型は金剛型を超えるスペックで、35.6 cm(45口径)連装砲塔6基を搭載し、排水量は3万トンを超えるという規模で、竣工当時では世界最大の戦艦となります。

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1917年年7月に横須賀で撮影された竣工直後の「山城」(画像:アメリカ海軍)。

 ところが竣工した「扶桑」は「艦隊に居るよりドックに居る方が長い」と揶揄されるほど、トライアンドエラーが繰り返されました。根本原因は、1隻で最大の火力を発揮しようとした欲張った砲塔配置で、国産で頑張ろうという無理な背伸びが露呈したようです。

 もっとも、歴史を後追いで見て金剛型を「オーソドックスにまとまった」とし、扶桑型と比較評価するのも酷です。ドッグに居る時間が長かったのも、満州事変などの当時の情勢からたびたび工事が中断され、配置に戻ったりしたため細切れの工期で長くなったともいわれます。

 第1次世界大戦の戦訓から、「扶桑」の第1次改装は上部装甲の強化、機関の改良を行います。第2次改装では主砲の爆炎を避けるため、艦橋が大幅に改造されています。

 こうした「扶桑」のトライアンドエラーの経験を、2番艦「山城」に反映するといった具合で、同じ扶桑型とはいいながら、2度にわたる改装を経て、この2艦は外観や装備が微妙に違っています。

 決定的な違いは艦橋形状で、「山城」は三番砲塔を後ろ向きに繋止としたため、「扶桑」のようにいびつな形状とはならず安定感があるように見えます。これはトラブルシューティング役だった2番艦ゆえの役得でしょうか。

【写真】砲塔上に飛行甲板を設けた「山城」の航空機発艦実験

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