戦艦「陸奥」はなぜ爆沈した? 旧海軍のアイドル艦 隠された事故とその背景、残る謎
「世界のビッグ7」の1隻に数えられた戦艦「陸奥」は、同「長門」と共に、旧海軍の象徴でした。ところがその最期は、瀬戸内海に停泊中、爆発事故を起こし沈没するというもの。1943年6月8日、その日「陸奥」になにが起きたのでしょうか。
緊急電「ムツ バクチンス 一二一五」
1943(昭和18)年6月8日、山口県岩国市柱島沖には戦艦「陸奥」、「長門」、「扶桑」、重巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」ほか、第十一水雷戦隊(駆逐艦4隻)が停泊していました。梅雨入り前で湿度が高く、海上にはもやがかかっていたといいます。
昼食時間後の休憩時間だった12時10分ごろ、「陸奥」の3番砲塔付近から煙が上がったかと思うと突如爆発、船体は4番砲塔後部から真っ二つに折れ、艦の前部は右に傾いて転覆しそのまま沈没してしまいました。
周りの艦には突然の大爆発音が何なのか、すぐには分かりませんでした。「陸奥」の南南西約1000m(2000mの説もあり)に停泊していた戦艦「扶桑」が爆発を目撃し、「ムツ バクチンス 一二一五」と海軍上層部への第一報を発します。敵潜水艦による雷撃かもしれません。ただちに対潜警戒態勢が取られ、あわてた駆逐艦から目標も分からないまま爆雷が投射されるなど、一時混乱しました。結局、敵潜水艦が侵入した形跡はなく、各艦は「陸奥」の救援に全力を尽くします。
その「陸奥」はというと、かろうじて浮いていた艦の後部も17時ごろに沈没してしまいます。乗員1474名のうち艦長以下1121名が死亡するという、大惨事となりました。
大本営参謀であった爺様の従弟の調査では、ピクリン酸を使用した下瀬火薬(国内では硝石が枯渇し、TNT火薬の製造が滞ったため明治時代に開発されていた下瀬火薬が再度生産されていた)下瀬火薬は取り扱いが難しく、三笠、畝傍など何度か火薬の取り扱いミスによる爆発事故が起こっており、陸奥もこの事故によるものと推定される。またこの手の事故の場合、自軍の不備を敵国に知らせないため原因不詳として発表するのが常である。
自分は海中から引き揚げられた陸奥の船体を実際に確認しているが、外部から機雷による力がかかった後で内部から爆発したような相反二方向に力がかかったのではなく、内部から外部に向かって一方的に力がかかっているように見受けられた。よって、触雷や魚雷攻撃によるものとは考えにくい。
兵の放火によるものかどうかは俄かには判断し難いが、少なくとも外部からの攻撃ではないと思われる。