救難機かスパイ機かWW2ドイツ救難部隊の表裏 敵も助けた騎士道精神と捨てられた赤十字

赤十字掲げ敵パイロットも救助した「ゼーノートディーンスト」

 対照的だったのがイギリスです。空軍の救難体制は貧弱で、当初、高速艇が約10隻ある程度でした。海峡の航行船舶量が多かったため、通りがかった船舶に助けてもらおうという消極的な発想だったのです。ゴムボートも載せておらず、手動操作が必要な救命胴衣(いわゆる「メイ・ウエスト」)のみが頼りでした。

 バトルオブブリテンのあいだも、高速艇は増やされるものの航空機は無く、装備や組織は改善されず海に落水したイギリス軍パイロットの生還率は20%といわれ、1940年7月から10月のあいだに、海上で215名のパイロットが死亡しています。

 その貧弱な体制をフォローするわけではありませんでしたが、ゼーノートディーンストは敵味方区別なく救助し、空の騎士道精神とも讃えられました。

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1941年7月にフィンランドで撮影されたHe59。ボートでパイロットが機体に漕ぎつけようとしている。後席には機銃も見え軍用仕様である(画像:フィンランド軍事博物館)。

 1939(昭和14)年12月18日、イギリスのヴィッカース「ウエリントン」爆撃機24機が、ドイツの北海に面したヴィルヘルムスハーフェンを爆撃しますが、ドイツ空軍の迎撃を受けて半数が撃墜されます。冬の凍るような北海に不時着したイギリス軍パイロット救難に出動したのがゼーノートディーンストで、約20名が救助されました。これがゼーノートディーンスト最初の大規模な救難作戦でしたが、救助したのは敵軍だったのです。もっとも、イギリス軍パイロットはそのまま捕虜になりました。

 バトルオブブリテンが本格化する直前の1940年7月1日と9日に、救難用He59が相次いでイギリス軍戦闘機に強制着陸させられます。救難機でありながらBf109戦闘機の護衛を受けていたり、He59がスパイ潜入に使われたりしたこともあり、イギリスは救難機にも疑惑の目を向けていたのです。

 この時、着陸させられたHe59のパイロットがイギリス輸送船団の位置や進路記録を持っていたことから、イギリスは救難機もスパイ機に使われていると見なし、7月14日になって攻撃対象となることを告知します。

【写真】「バトルオブブリテン」ドイツ機の背後についた「スピットファイア」

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2件のコメント

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