香川の「こんぴらさん」に自衛艦の錨…なぜ?「掃海殉職者顕彰碑」と「掃海」の歴史
国際平和と海上交通の安全を毎年祈念
機雷を除去、処分する掃海作業は、1945(昭和20)年8月の終戦から全国の主要航路や港湾で開始されます。安全宣言が出された1952(昭和27)年6月まで7年弱のあいだ続きましたが、その作業中に爆発事故などで78名が命を落としました。
この尊い犠牲を追悼し、なおかつ掃海作業の苦難と偉業を称え後世に伝えるために、全国の32港湾都市の市長らが発起人となり、1952(昭和27)年6月に建立されたのが前述の「掃海殉職者顕彰碑」です。揮毫(きごう)は当時、首相であった故吉田 茂氏によるもので、同年から掃海殉職者追悼式が毎年行われています。
なお同碑には、1963(昭和38)年の掃海訓練において事故死した海上自衛官1名も追記されたため、2020年現在は79名の殉職者の名前が刻まれています。
掃海母艦「はやせ」は、そのような危険な任務に従事する掃海部隊の中心となる旗艦として建造されました。1991(平成3)年には、日本から遠く離れたペルシャ湾の掃海任務に従事するために編成された派遣部隊の旗艦も務めています。その業績をたたえ、国際平和と海上交通の安全を祈念する象徴として、前述の錨は安置されています。
ちなみに掃海殉職者追悼式は、1952(昭和27)年以降、毎年5月の最終土曜日に顕彰碑の前で催されています。2020年は69回目の追悼式が予定されていましたが、呉地方総監部によると、新型コロナの影響で5月20日(水)時点では実施未定とのことです。
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Writer: 柘植優介(乗りものライター)
子供のころから乗り物全般が好きで、車やバイクはもちろんのこと、鉄道や船、飛行機、はたまたロケットにいたるまですべてを愛す。とうぜんミリタリーも大好き。一時は自転車やランニングシューズにもはまっていた。
金毘羅って海運の守護で沿岸を通ると停泊して参詣する訳にも行かない時に、「奉納 金刀比羅宮」と書いた白幡を流して、地元のの漁民は回収して金毘羅宮に奉納(代参)する「流し樽」という風習があって、今でも海上自衛隊の艦艇や他の船舶でもしている。
その辺のことも併せてあるのでは?