「馬の形をした猛獣」…日本の「軍馬」 試行錯誤の黎明期から現代にいたるその歩み
軍馬の管理制度ができたのは現場から不満が続出した日露戦争中
軍馬の管理を徹底し、優秀な血統は種牡馬として残し、軍馬として使うせん馬とは明確にわける「馬匹去勢法」が成立したのは、明治も末期の1901(明治34)年でした。その前年の1900(明治33)年に起こった義和団事件では、欧州各国の部隊と初めて共同作戦を行った際、日本軍歩兵の統率は大きく評価されていましたが、騎兵に関しては、「小さい馬が多い」「隊列が乱れるときがある」「馬の気性が荒く輸送に時間がかかる」など、散々な評価を受けました。
そういった厳しい状況にも関わらず、1904(明治37)年2月には日露戦争が勃発し、当時、世界最高水準だといわれたロシア帝国のコサック騎兵と日本は戦わなければならなくなります。
この戦争でコサック騎兵と互角以上の戦いをしたのが、某小説でも有名な秋山好古少将が率いる騎兵第1旅団を主体とした秋山支隊ですが、機動力や突破力といった、騎兵本来の能力としては圧倒的にコサック騎兵の方が上でした。そこで秋山支隊は、騎兵部隊に歩兵、砲兵、工兵などを随伴させ、当時まだ兵器としては実力未知数だった機関銃を運用することでコサック騎兵を撃退しました。
とはいっても秋山支隊のように戦果をあげる部隊ばかりではなく、日露戦争中、日本陸軍では軍馬の貧弱さが露見するような報告が次々とあがり、ついには明治天皇まで「馬匹改良のために一局を設けてはどうか」と勅諚をくだすほどに。
結局、日露戦争中の1904(明治37)年4月7日に「臨時馬政調委員会」が設立され、日露戦争後から日本は軍馬の改良を本格的に進めていくことになります。このときから乗馬用のアラブ種やばん馬のペリシュロン種などが海外から大量に輸入され、軍用のみならず、農耕用の馬でも、日本の在来種の数は少なくなっていき、大正時代の後期には馬の大きさも海外と大差のないものになります。
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