戦没したはずが生きててビックリ! 戦火を耐え抜き2度国籍変更した流転の駆逐艦の航跡
なくしたと思っていたものが、ふとした瞬間に出てくることはありますが、それが駆逐艦だったら驚くでしょう。しかも自沈処分したはずが、敵の艦艇として太平洋戦争を戦い抜いていました。駆逐艦「スチュワート」の数奇な航跡を辿ります。
東アジアへの派遣が艦の運命を決めた
第2次世界大戦中、進攻した先で敵軍が放棄した兵器を集め、自軍装備として再使用することは、各国で行われていましたが、そのようなリユースは銃器類や車両だけでなく、艦船についても同様でした。
旧日本海軍が使用した第百二号哨戒艇も同じく、当時、敵であったアメリカ海軍の駆逐艦を接収したものですが、この艦はなんと終戦後、再びアメリカの軍艦として星条旗を掲げアメリカ本土に戻った経緯があります。いったいどのような艦歴をたどったのでしょう。
第百二号哨戒艇の元々の艦名は、アメリカ海軍の駆逐艦「スチュワート」です。この艦は、第1次世界大戦直後の1920(大正9)年3月4日に進水し、半年後の9月15日に就役しました。
就役当初は、アメリカ本土東海岸を拠点とする大西洋艦隊に所属し、カリブ海などで活動していましたが、就役から約2年後の1922(大正11)年6月にフィリピンを拠点とするアメリカ海軍アジア艦隊に転属となり、地中海とスエズ運河を通ってフィリピンに向かいました。
駆逐艦「スチュワート」は、これ以降は太平洋戦争終結まで約四半世紀のあいだ、アメリカ本土に戻ることなく活動することになります。フィリピンに到着した翌年の1923(大正12)年9月には、関東大震災で被災した首都圏を救援するために来日したほか、グアムに行ったり、中国の上海や南京に派遣されたりと、東アジア域内を動き回っていました。
現代の米軍だったら新造艦を建造できるコストを費やしてもスチュワートを復元して、凱旋鑑として海軍のシンボルにしたでしょうね。