空港なくても「着水」で 水上飛行機の旅客路線はなぜ消えた? 空から優雅に温泉旅行の時代
ローカル航空会社ゆえの悲しい幕引き
1962(昭和37)年、日東航空は大阪~新居浜線を日本有数の観光地である大分県別府まで延長。これにより同路線は、ビジネス客に加えて行楽客も利用するようになり、混雑する人気路線となりました。
瀬戸内海や紀伊半島の景色を高度2000m弱の空から楽しみ、着水して迎えのモーターボートに乗り換えればそこは目的地。その優雅さは想像するだけでも楽しい気分にさせられます。
しかしその栄華は長く続きませんでした。日東航空などの中小エアラインは、収益性が低いローカル航空のため経営が不安定でした。加えて機材も中古機が多く、当時の地方空港は設備が不十分なこともあり事故が多発します。
日東航空でも1963(昭和38)年に「オッター」が、1964(昭和39)年には「マラード」が相次いで墜落。いずれも多くの死傷者を出しています。特に「マラード」の事故は、海水で傷みやすい中古水上機の問題点が露呈したものでした。
その結果、1964(昭和39)年、運輸省(現・国土交通省)の指導で日東航空は、北日本航空、富士航空の2社と合併し「日本国内航空」へと生まれ変わります。なお、同社はその後、東亜国内航空を経てJAS(日本エアシステム)に姿を変え、JALグループへ統合されました。
日本国内航空が誕生すると、日東航空時代に購入した水上飛行機は経済性が悪く、加えて各地に空港が整備されたことで必要性も薄れたなどの理由から、1966(昭和41)年頃までに姿を消しました。
冒頭の「せとうちSEAPLANES」以外にも、日本では国産のUS-2救難飛行艇を転用した旅客飛行艇による小笠原諸島 父島への航空路開設などで水上飛行機が時折、話題に上がります。60年前の人々が楽しんだ水上飛行機による優雅な海と空の旅。また楽しめる日が来るのを筆者(リタイ屋の梅:メカミリイラストレーター)は静かに願います。
【了】
Writer: リタイ屋の梅(メカミリイラストレーター)
1967年生まれ。「昭和30~40年代の自衛隊と日本の民間航空」を中心に、ミリタリーと乗りもののイラスト解説同人誌を描き続ける。戦後日本史も研究中。
水上機を運行するには、離着水する海面が流木などがないようクリアーに保つ必要があるそうで、この辺りも水上機・飛行艇の民間での運行が廃れた理由でしょう。
瀬戸内は大変残念です。
一度乗ってみたかった。
某作家は安全性が高くないと思われるからゴメンだと書いてましたが。
私信:次の同人誌を楽しみにしております。
大阪~新居浜なんてどこに需要があったの?と思われる人も今では多いだろうな。
新居浜:住友財閥のお膝元で住友企業の工場多数。
大阪:(今ではだいぶ整理はされたけど)住友の都会での拠点。
だから住友のおエライサンか住友と取引のあるおエライサンがお得意様だったんだろうな。