開業した横浜のロープウェー 眼下に続く「廃線跡」は何? 近代史を牽引した鉄路

日本の輸出8割・輸入6割を担った地への鉄道 どう使われた?

 やがて横浜港には大型の鉄桟橋が東西2か所に設けられたものの、スペースが足りず、それまで貿易のメインであった「象の鼻地区」で出荷待ちの貨物が何週間分も溜まり続ける「滞貨問題」が深刻に。港としての根本的な能力不足を解消するため、明治から大正にかけ沖合が埋め立てられ、現在の新港地区が形成されます。そのなかにあった12か所の埠頭と2棟の保税倉庫(入管手続きを終えていない貨物の待機場。現在の赤レンガ倉庫)への輸送手段として設置されたのが、現在の「汽車道」の原型、1911(明治44)年に開通した貨物線です。

 新港の北東端にあった埠頭にはホーム(横浜港駅)が設置され、サンフランシスコやシアトルといったアメリカ西海岸や、ロンドンなどへ就航する貨客船の発着に接続する形で「ポート・トレイン」が往来し、横浜港~東京駅のあいだを片道45分で結びました。大正から昭和初期にかけては、横浜新港が日本における海外への主な玄関口のひとつだったといえるでしょう。

 ただ当時の欧米への渡航費用は、サラリーマンの平均年収をもってしてもハワイへの片道代程度という高額なものだったため利用する層は限られており、また最も安い3等の乗船客(主に海外移住者など)は検疫のために前日からの指定旅館への宿泊が必要なため、ボート・トレインを利用することはなく、列車の利用客はもっぱら外国からの来客や見送り客などに限られたようです。

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大正時代の横浜新港。倉庫や岸壁へいくつもの鉄路が延びていた(画像:横浜新港倉庫)。

 他方、貨物の面で横浜港は一時、日本の輸出額の8割、輸入額の6割を占めるほどでした。輸出の主要品目であった絹や生糸は八王子などから横浜線(1908年開業)と臨港線を経由して新港で船積みされ、綿花や砂糖・生ゴムなどの輸入品は、新港の保税倉庫で関税の手続き終了を待って、臨港線を通じて国内各地に出荷されていきました。

 たった3km四方ほどの新港エリア内に立ち並ぶ倉庫や岸壁へ、総延長にして10km以上の貨物線や引込線が敷設され、すべての貨物列車が現在の「汽車道」を経由して東海道本線などへ向かっていたのです。

【地図/写真】ロープウェーと周辺図/臨港線跡を写真でたどる

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