43歳を迎えた成田空港 開港までの激動の歴史 当初計画は面積2倍、「成田」でもなかった
一転した空港計画 各所の準備も進められる
ただ、富里市へ新空港建設の案が発表されると、地元から強力な反対運動がおこります。政府も当初は説得を試みたものの、1966(昭和41)年には空港予定地を、富里市に隣接し、成田市の三里塚を中心とする地区に変更することにしました。この土地は、県有地を含む皇室用財産である下総御料牧場を中心とするエリアであったことから、用地取得のハードルが下がると考えられていたためです。
また、買収する民有地を少なくすることとし、空港の規模を当初案の半分ほどの1060ヘクタールに変更。平行に配置された主滑走路2本と横風用の1本を設置して、1971(昭和46)年の開港を目指しました。滑走路のレイアウトは3本で、まず最初に4000mのA滑走路を設置、その後、2500mの平行滑走路、3200mの横風用滑走路を設置し、1974(昭和49)年に全面運用できる計画でした。
一方、空港予定地にあった御料牧場は、宮内庁などとの調整により、栃木県高根沢地区に建設中の新御料牧場との建築交換によって取得、さらに、敷地内の県有林については空港敷地外の下総御料牧場跡地と交換するなど、調整が進められます。
こうして1970年頃から、三里塚で空港建設がスタートしました。都内から成田空港へのアクセスについても整備が進められ、新幹線の調査(1972年に認可されたが実現せず)や高速道路の新設も始まります。1971(昭和46)年には、反対派の一坪運動共有地などに関して、建設大臣による土地収用法に基づく代執行が行われ、その結果、第一期工事区域の98%が取得されました。
また、空港の生命線と言われる航空燃料輸送のためのパイプラインも整備が進められ、当初は、千葉港頭から新東京国際空港まで、東関東自動車道の用地下を配管することになっていました。ただ、開港までに整備が難しかったことから、パイプライン整備完了まで暫定措置として、国鉄の専用タンク車を用いた燃料輸送の準備が進められました。ちなみに、この燃料暫定輸送基地は現在、大型ショッピング施設「イオンモール成田」になっています。
成田空港の建設についての事件はもっとたくさんあるし、歴史を語るのに芝山町のことが一言も書いてないことがおかしい。書くならばもっと詳しく書くべきだと思います。