陸自61式戦車 1度も戦わぬ一方で果たした役割とは 旧陸軍の「遺産」を繋げ未来へ
61式戦車は日本で開発された戦後初の自衛隊主力戦車で、そこには旧日本陸軍での技術も使用されています。低性能との声も大きい旧陸軍の戦車ですが、当時の技術水準は、必ずしも全てが低かったわけではないのです。
途絶えたと思われた国産戦車開発の復活
旧日本陸軍の戦車といえば、火力面、装甲面どちらにおいても、おもな対決相手だったアメリカ軍の戦車に遠くおよばず、散々な評価を受けています。しかし、戦中に国内やアジア地域での運用を考慮しつつなんとか世界水準に追いつこうとした努力は、戦後の61式戦車で活かされることとなります。
「61式戦車」は、戦後初めて開発された国産の戦車であり、戦後型の機動性と防御力、火力をバランスよく兼ね備えた「主力」戦車が日本で開発された最初の例でもありました。
戦後、初期の陸上自衛隊やその前身である保安隊および警察予備隊は、M4A3E8戦車(M4シャーマン・イージーエイト)やM24軽戦車など、アメリカから提供された戦車を使用していました。やがて各国で戦後第一世代の戦車が登場し始めると、1952年(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約の発効にともない占領状態から脱したことや、アメリカの対外援助などの恩恵もあり、戦車の国産への移行の気運も加速し、1955(昭和30)年に国産の主力戦車を開発することが決まりました。
開発を担当した三菱重工は戦前、戦中に日本軍の戦車を開発し、戦後もアメリカ製戦車の修理などを担当することで技術を高めており、新型戦車は、戦後に供与されたアメリカ製戦車の影響を受けつつも、旧陸軍の技術も盛り込む形で開発されました。特にエンジンは空冷ディーゼルエンジンを採用するということで、戦前・戦中とディーゼルエンジンを搭載した戦車を世界的に見ても初期から開発していた日本では、その際の技術蓄積が大いに活かされることとなります。
また、最初に試作されたST-A1、ST-A2という2種類の試作車には戦前研究されていた、トーションバー・サスペンションの技術が盛り込まれました。
このように戦後の戦車に旧日本軍の技術を盛り込むことができたのは、戦車開発を行っていた旧第4陸軍技術研究所が、実用化はすぐに不可能とは自覚しつつも、エンジンやサスペンションのほか、旧陸軍戦車にあるようなリベット打ちの砲塔ではなく、鋳造砲塔やその砲塔に搭載する大口径砲などを持つ35t級の戦車を研究していたためです。
一発必中AI自爆ドローンにやられたらどんな戦車もたまりませんよ