もしかしたら空母に改装されたかも!? 世界初の3万トン超え軍艦「扶桑型戦艦」の存在意義
旧日本海軍の戦艦「扶桑」は、世界で最初に常備排水量が3万トンを超えた戦艦です。ただ、そこまでの巨大戦艦ゆえに竣工後も様々な問題を抱えていました。その歴史をひも解きます。
超ド級戦艦に対抗するために計画
1915(大正4)年11月18日に就役した扶桑型戦艦「扶桑」は、世界で最初に常備排水量が3万トンを超えた戦艦でした。そのため、日本は建造こそできたものの、さまざまな不具合を解決できず、就役時から常に試行錯誤を重ね続けました。
扶桑型戦艦の設計が始まったのは、1909(明治42)年のこと。アメリカは、1911(明治44)年に、356mm砲を搭載したニューヨーク級戦艦を起工、続いてイギリスが翌1912(明治45)年に、381mm砲を搭載したクイーン・エリザベス級戦艦を起工した時期でした。こうした305mm砲を越える主砲を搭載した超ド級戦艦への対抗が、扶桑型に求められた責務でした。
ちなみに扶桑型は当初、50口径305mm砲搭載を検討したものの、45口径356mm砲に変更されました。また、このさいにイギリス側から42口径381mm砲の搭載を勧められましたが、建造遅延を避けるために、日本側から断っています。
こうして扶桑型戦艦の1番艦「扶桑」は1915(大正4)年11月に就役します。「扶桑」は日本国の異称。2番艦「山城」は都の所在地(京都)ですから、後の戦艦「大和」「武蔵」と同じで、本型への期待が伺えます。
扶桑型は356mm砲12門、最大速力22.5ノット(約41.7km/h)で、ニューヨーク級戦艦より、主砲で2門、速力で1.5ノット上回っていました。ただし「山城」については、最高23.3ノット(約43.2km/h)を記録したものの、安定して発揮できる速力は21ノット(約38.9km/h)で、旋回性能や保針性も不良と、国産設計の不慣れさがあったようです。
1916(大正5)年に戦艦ペンシルベニアが就役するまで、扶桑型は「世界最初に排水量が3万トンを越えた、世界最大の戦艦」でした。とはいえ「世界最強」という点については、1915(大正4)年1月に、イギリスにおいて主砲の威力と速力、装甲防御力において扶桑型を上回るクイーン・エリザベス級戦艦が就役していたため、名乗れなかったといえるでしょう。
ちなみにクイーン・エリザベス級は42口径381mm砲8門、速力25ノット(約46.3km/h)という性能でした。それでも、完成直後の扶桑型は、同級やドイツのバイエルン級戦艦、アメリカのペンシルベニア級戦艦に準ずる、概ね世界一流といえる戦艦でした。
大改装で走攻防の三要素が大幅強化
1921(大正10)年のワシントン海軍軍縮会議を前に、日本は既存戦艦の大改装を計画します。そのなかで扶桑型の2隻は、主砲を410mm砲10門(連装2基、3連装2基)に換装し、防御力も強化するという計画が立てられたものの、これは成立した軍縮の条約内容に合わず断念されます。
もし、この改装が実現していたら、扶桑型は長門型戦艦以上の攻撃力を得られたでしょう。ただ、最大幅28.65mの扶桑型に410mm3連装砲塔を搭載したら、安定性に問題を抱えた可能性もあります。
このような大改装計画は実施されずに終わったものの、扶桑型戦艦は主砲が船体の各所に分散配置されていることによる爆風問題など、多くの不具合を抱えていたため、頻繁に改装工事が行われていました。それら諸問題を一挙に解決すべく1930(昭和5)年から翌1931(昭和6)年にかけて、大改装に入ります。
その大改装は多岐に渡りました。主砲は仰角を引き上げ、最大射程を3万5450mに延伸。さらに水圧機と複座動力を強化することで、発射速度を落とさずに全門斉発(全主砲を一斉に射撃すること)を可能としました。加えて給弾速度の改善や、水中弾の発生確率を上げ、貫通力を大幅に改善した新型砲弾である「九一式徹甲弾」を運用可能にしたほか、砲弾定数の増加も実現しています。また、この時に副砲の仰角向上や、高角砲の換装、魚雷発射管の廃止も行われました。
一方、防御力については、一部分についてはかなり強化されたものの、徹甲弾の進化が著しい時期でもあり、主要防御区画でも、自艦の356mm砲弾の直撃にすら耐えられない装甲が残るなど防御力不足を否めませんでした。
水中防御についてはバルジ(船体側面の膨らみ)で強化されたものの、魚雷の性能向上は著しく、結局、太平洋戦争中のアメリカ軍の新型魚雷に対しては防御力不足を露呈しました。
改装は攻撃力と防御力だけでなく、速力、すなわち脚の速さにも手が加えられました。艦尾を7.62m延長することで推進抵抗を改善。さらに機関を換装して出力を向上させています。
これにより、「扶桑」が公試で24.7ノット(約45.7km/h)を発揮するなど、大きく速力が向上しました。
開戦するも、ほぼ出番なし
こうして「扶桑」と「山城」は1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争を迎えましたが、真珠湾攻撃で味方の空母機動部隊らがアメリカ戦艦部隊に大打撃を与えたことで、ほぼ出番がない状態となりました。
1942(昭和17)年6月には、ミッドウェー島攻略作戦の失敗を受け、扶桑型2隻の空母への改装が計画されます。この改装では搭載機45機程度の空母にできると見積もられましたが、工期が長くなることから、断念されます。
そこで折衷案として船体後部のみを空母化した航空戦艦という案も検討されます。これは主砲塔3基を撤去し、伊勢型航空戦艦に準じる航空機運用能力を持たせるものでした。しかし、工事量と改装後の性能から、伊勢型の改装が優先され、扶桑型の改装はやはり見送られました。
結果、「扶桑」は1943(昭和18)年7月、2号1型改2電探や機銃を増備して艦隊に戻ります。一方「山城」は装備実験任務に就き、探照灯管制用の4号3型電探の実験などに従事したのち、マリアナ沖海戦後に現役復帰しました。
そして2隻は、レイテ沖海戦で圧倒的多数の米艦隊からの魚雷攻撃を受け、1944(昭和19)年10月25日、スリガオ海峡にその船体を没したのです。
扶桑型戦艦は、日本海軍が保有した初の、世界一流と呼べる国産戦艦でした。しかし、不具合で優先的に大改装された結果、軍縮条約に縛られ、太平洋戦争では中途半端な性能になってしまいました。改装は、条約破棄で実現しなかった代艦との兼ね合いもありますが、「第3主砲塔撤去で機関強化し、天城型類似の高速戦艦にする」など、思い切った改装が必要な艦型だったと感じる次第です。
【了】
Writer: 安藤昌季(乗りものライター)
ゲーム雑誌でゲームデザインをした経験を活かして、鉄道会社のキャラクター企画に携わるうちに、乗りものや歴史、ミリタリーの記事も書くようになった乗りものライター。著書『日本全国2万3997.8キロ イラストルポ乗り歩き』など、イラスト多めで、一般人にもわかりやすい乗りもの本が持ち味。
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