日本陸軍、チャリでシンガポールへ! 日本版電撃戦“マレー作戦”の立役者「銀輪部隊」疾走1100km
日本軍が自転車を大量使用できたワケ
当時、イギリスは北ボルネオとマラヤ(現在のマレーシア)、シンガポール、ビルマ(現在のミャンマー)に植民地をもっていました。マレー作戦は、南シナ海に面した街コタバルに上陸し、マレー半島を縦断してイギリス軍最大の拠点だったシンガポールを占領するのが目標です。踏破距離は約1100kmにおよびますが、これは東京から博多までの距離に相当します。
では、なぜマレー作戦が日本版「電撃戦」といわれるのか。電撃戦といえば、ドイツ軍のポーランドとフランスへの侵攻を指すことが多いです。これらドイツ軍の侵攻は、航空機の支援を受けて、戦車と軍用車両が電光石火のごとく進撃するイメージがありました。ドイツ語の「ブリッツ(電撃)クリーク(戦い)」が由来で、稲妻のような早業で短期間に敵軍を撃破する戦いを意味します。
しかし、これら電撃戦が行われた当時、ドイツ軍には主力のIII号戦車はまだ数が少なく、それよりも小型で性能も劣るI号戦車やII号戦車、チェコスロバキア製の軽戦車などが中心でした。また、戦車と協同する歩兵についても、車両移動できたのはごく一部で、多くは徒歩での移動でした。
さらに、ドイツ軍が行ったポーランド侵攻も、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)を経由してフランスに侵攻した西方電撃戦も、目標はドイツの隣国であるため移動距離はマレー作戦に比べてずっと短いものでした。
逆にいうと、旧日本陸軍はマレー作戦において、電撃戦の本家ドイツよりも長距離を、ドイツ軍よりさらに心もとない装備で素早く進撃するという難題に臨まねばならなかったといえるでしょう。
旧日本陸軍にもトラックなどの軍用車両を多数装備した機械化部隊はあったものの、マレー作戦に投入予定であるすべての歩兵部隊を移動させられるほどの能力はありません。そこで陸軍が目を付けたのが自転車でした。
戦前から日本製の自転車は東南アジアに数多く輸出されていました。壊れにくいうえに、修理のための部品も国産だと調達が容易なため、上陸作戦後に現地で徴用した自転車を歩兵の移動に転用したのです。なお、この自転車で移動する歩兵は「銀輪部隊」と呼ばれました。
りんりん部隊、ではありません