日本陸軍、チャリでシンガポールへ! 日本版電撃戦“マレー作戦”の立役者「銀輪部隊」疾走1100km

上陸から2か月ほどでシンガポールを攻略

 また、数は多くありませんでしたが、当時の主力だった九七式中戦車と九五式軽戦車を中心にした戦車部隊が前面に立ち進撃していきました。日本の戦車はアメリカやイギリスに比べて脆弱との評判がいまでは定着しているものの、太平洋戦争初期は戦力として十分使えるレベルでした。

 マレー半島はイギリスが幹線道路を整備しており、旧日本軍にとって戦車部隊と銀輪部隊、それに軍用車両の移動に都合が良かったといえます。

 イギリスはヨーロッパでドイツと戦っており、本国から遠く離れた東南アジアに増援できる余裕はありませんでした。代わりにイギリス連邦軍として、インド軍やオーストラリア軍が現地へ派遣され、戦争に備えていました。

 太平洋戦争は長期化による消耗戦で日本が負けたといわれますが、戦争が始まった当初は連合軍と戦力が拮抗していたと見ることができます。

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クアラルンプールの市街に入る旧日本陸軍の銀輪部隊(時実雅信所蔵)。

 旧日本陸軍のコタバル上陸から2か月後の1941(昭和16)年2月8日に、シンガポールの攻防戦が始まります。シンガポールは要塞化されているだけでなく、東アジアにおけるイギリス海軍の拠点となるセレター軍港もありました。しかも、ここは戦艦の修理も可能なドックを有していました。これらの理由から、イギリスにとってシンガポールの陥落はアジア地域の死活問題に直結するものだったといえます。

 戦車部隊と銀輪部隊によってそのシンガポールが陥落したのは、攻防戦開始から1週間後の2月15日でした。

 その後、旧日本軍の占領下に置かれたシンガポールは終戦まで「昭南島」と呼ばれます。日本はマレー半島に続いて、蘭印とフィリピン、ビルマの戦いで東南アジアから連合軍を排除し、太平洋戦争は次の段階に移りました。ちなみに、マレー作戦の原動力となった戦車と銀輪部隊はフィリピンの戦いでも投入されています。

 その後、中国を除いて太平洋の戦いが海戦と島嶼部の攻防戦に移ったことで、何百kmも踏破する立地条件がほぼなくなり、同様な作戦を実行する機会は訪れませんでした。

 こうして見てみると、マレー半島とフィリピンの戦いは、戦力と立地条件の双方に恵まれていたからこそ可能な、数少ない日本版「電撃戦」だったといえるでしょう。

【了】

【写真】日独電撃戦を実際に比較

Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)

軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。

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コメント

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1件のコメント

  1. りんりん部隊、ではありません