隠れ重巡、のちに航空巡洋艦へ 1934.3.14「最上」進水 没後75年に海底で発見
2度の味方艦との衝突
1942(昭和17)年6月には、ミッドウェー島攻略部隊を支援すべく、ミッドウェー海戦に参加します。しかし日本は主力空母4隻を喪失。夜間に反撃を試みますが、撤退命令が出て後退する最中、アメリカ軍の潜水艦に発見されます。このとき、回避行動の最中に味方の重巡洋艦「三隈」と衝突。このあとに襲来した敵機の空襲もあり「三隈」は沈没、「最上」も大破してしまいます。
なんとか佐世保に帰り着いた「最上」は修理を受けるとともに、旧海軍の航空戦力を強化するため、後部砲塔を撤去し水上機用甲板を増設。こうして翌1943(昭和18)年、「航空巡洋艦」となります。水上機は最大で11機搭載できました。
その後はパプアニューギニアのラバウルなどへ物資輸送任務に従事します。1944(昭和19)年6月には、中部太平洋の要衝、サイパン島およびグアム島を巡ってマリアナ沖海戦が勃発。「最上」も参戦しますが、戦果を挙げられないまま、日本は敗北を喫しました。
同年10月、フィリピンを攻略しようとアメリカ軍がレイテ島に上陸。ここに日米の総力を挙げたレイテ沖海戦が勃発、「最上」も参戦します。
「最上」はフィリピン東部のスリガオ海峡に進出。水上偵察機を発進させ、アメリカ艦隊の索敵に成功します。しかし圧倒的な戦力差に、日本は苦戦。行動をともにした戦艦や駆逐艦が撃沈され、「最上」も砲撃で火災に見舞われます。
さらにその最中、「最上」は味方の重巡洋艦「那智」と衝突してしまいます。炎上している「最上」を「那智」は停止と判断、その前方を横切ってしまったためでした。大破した「最上」は味方の駆逐艦により、雷撃処分されました。
こうしてフィリピン沖に没した「最上」でしたが、沈没から75年後の2019年5月、故ポール・アレン氏の調査チームによって発見されます。場所はスリガオ海峡の水面下1450mの地点でした。ちなみに故アレン氏は実業家であっただけでなく、父が第2次世界大戦に従軍したこともあり、晩年は同大戦で戦没した各種艦船の調査に取り組んでいました。
【了】
大淀型阿賀野型と共に日本巡洋艦の最終型。きれいな船です。
>基準排水量8500トンに抑えられ
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