核実験で艦艇の在庫一斉処分? ビキニ環礁の実験はなぜ行われたか 日本艦も“的”に
戦艦「長門」と軽巡洋艦「酒匂」。どちらも太平洋戦争を生き抜くも、ビキニ環礁で行われた第2次大戦後初の核実験「クロスロード作戦」で沈みました。この実験はアメリカ海軍が戦後も一定の影響力を確保するために仕掛けた壮大なテストでした。
艦隊予算を確保するための原爆実験
太平洋戦争終結時に日本の戦艦で唯一、航行可能な状態で残っていた「長門」。ゆえに同艦は戦後、アメリカ軍に接収され、ビキニ環礁の原爆実験で沈められました。艦船ファンの間では比較的よく知られたハナシですが、逆に原爆実験の実施目的はあまり知られていません。実は、戦艦「長門」が用いられた原爆実験は、世界初となる戦術核兵器の効果を試すのが目的でした。
発端は日本で玉音放送があった翌日の1945(昭和20)年8月16日に遡ります。アメリカ陸海軍軍需委員会のルイス・シュトラウス代将が、ジェームズ・フォレスタル海軍長官にある提言をしています。その概要は、「原爆によって艦隊が時代遅れになるという話が出ており、戦後の艦隊計画を維持する予算確保が不利になる。艦隊が有効性を証明する実験が必要だ」というものでした。
議会にも知らせずに機密費で開発した原爆は、歴史上初めて原爆が広島に投下された8月6日にトルーマン大統領がラジオ演説を行い、その存在が公表されました。この時点で、原爆の破壊力や被害の実態はアメリカも認識が薄く、戦後の核拡散も予見できていませんでした。
同年8月25日にはライアン・マクマホン上院議員が、捕獲した日本艦艇で原爆の威力を証明するという逆提案をしています。これを受けて原爆開発を管理していた陸軍航空軍(後のアメリカ空軍)は捕獲した38隻の日本艦艇のうち、10隻を実験用に確保するよう海軍へ要請したのです。
その後、陸海軍の調整が難航し、原爆開発に携わった科学者から環境や参加人員への影響を懸念して実験はすべきでないとの反対意見が出たものの、原爆実験の準備は進められます。結果、1946(昭和21)年1月24日には、同年中に2回、翌1947(昭和22)年に1回の実験を行うことが決定。これら一連の実験は「クロスロード作戦」と名付けられ、実施場所は南太平洋のビキニ環礁が指定されました。
ビキニ環礁があるマーシャル諸島は日米両軍の激戦地でしたが、同環礁は位置としてはマーシャル諸島の北端に位置しているたるため、太平洋戦争中も旧日本軍は守備隊を置かず戦争とは無縁でした。戦後アメリカはマーシャル諸島を保護領にして、ビキニ環礁やエニウェトク環礁で核実験を繰り返しています。また、クウェゼリン環礁には、現在も弾道ミサイルの実験場があります。
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