核実験で艦艇の在庫一斉処分? ビキニ環礁の実験はなぜ行われたか 日本艦も“的”に

実験で沈まなかった艦船も順次、海没処分へ

 こうして、まず1回目の実験が1946(昭和21)年7月1日に行われました。原爆の投下目標になった戦艦「ネヴァダ」は、全体がオレンジ色に塗装されていました。しかし、パラシュートで投下した原爆が風で流され、西北西に約640mずれてしまいました。そのため、この時「ネヴァダ」の近くに繋留されていた「長門」は大きな損害を受けませんでした。一方、爆発地点に近かった「酒匂」は大破して、翌日に浅瀬へ曳航される途中で沈んでいます。

 約3週間後の7月25日に実施された2回目の実験では、原爆の起爆装置だけを上陸用舟艇から水深27.5mの水中に吊り下げて行われました。今回は核爆発の水圧による被害で、大型艦のうち爆心地から約300mにあった「アーカンソー」と「サラトガ」が沈没、900m近く離れていた「長門」は傾斜しただけでしたが、28日深夜に沈没しています。

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2回目の「ベーカー」実験。左の矢印が「サラトガ」、右は「長門」(画像:アメリカ海軍)。

 なお、アメリカ海軍は2回とも実験後に船体を海水で除染しています。それでも、汚染が深刻なため3回目の実験は中止になり、あらためて1955(昭和30)年にサンディエゴ沖で水深600mの核実験が行われています。とはいえ、この除染作業でアメリカ海軍の兵員の多くが被爆しています。

 他の艦艇はというと、爆心地から離れていた軽巡洋艦「プリンツ・オイゲン」は被害がほとんどなかったものの汚染がひどかったため、クウェゼリン環礁に運ばれて浅瀬に放棄されました。一方、軽空母「インディペンデンス」や戦艦「ネヴァダ」「ニューヨーク」などの大型艦は、その後標的艦として汚染されたまま海没処分されています。

 ビキニ環礁での一連のテスト以後、世界は核実験の時代を迎えます。しかし、艦隊を標的にした実験はこの時が最初で最後になりました。

 限定的な戦場で使用される戦術核兵器とは、あくまで使い方による類別であり、必ずしも小さな核爆弾を指すものではありません。ビキニ環礁での実験は、長崎型クラスの原爆でも使い方によっては戦術核になる、ということを示しています。

 将来、どこかの戦場で、たとえば艦隊などを殲滅するために、大型の原爆が使用される可能性もゼロではないのかもしれません。

【了】

【写真】核実験の標的となった大戦中の各国艦船ほか

Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)

軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。

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