西九州新幹線で91年ぶり“鉄道復活” 嬉野温泉 昔の電車なぜ消えた? 背負った百年の悔い

鉄道敷設に自ら背を向けた嬉野 「百年の悔い」を背負うことに

 長崎へ通じる長崎本線が現在の海側区間(肥前鹿島経由)となったのは1934(昭和6)年のことで、それまでの長崎本線は現在の佐世保線・大村線を経由していました。このルートで1891(明治24)年に博多~長崎間が開通した当初は、鳥栖・大村・諫早など、ほとんどの区間が長崎街道沿いに敷設されました。

 しかし、そのルートは街道の要衝であった嬉野を避けるように北側へ外れ、大きく迂回しています。最短ルートだったはずの嬉野を避けた原因には様々な説があるものの、温泉街・嬉野は至近に鉄道が開通すると「客が素通りしてしまう」と、強く反対していたという記録が、しっかりと残っています。

 その後に決定的な要素となったのは、街道沿いではない有田が特産の陶磁器を出荷するために街を挙げて鉄道誘致に舵を切ったことでしょう。また、嬉野周辺は山に囲まれており、 当時の土木技術でいうと、嬉野~彼杵(そのぎ)・大村への峠越えより、有田~三間坂~早岐という現在の佐世保線ルートを建設する方が容易であったこともあるでしょう。

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武雄温泉~嬉野温泉~彼杵を結ぶJRバス。長崎街道沿いのルートをたどっている。彼杵町内(宮武和多哉撮影)。

 住民の要望の通り「鉄道がない街」となった嬉野ですが、温泉街としての賑わいは鉄道が開通した武雄にすっかり奪われ、完全に明暗を分けることに。そのことは当時の「嬉野町史」でも「痛哭(つうこく)の思い」「百年の悔い」など様々な言い回しで何度も登場し、住民の後悔の様子が伺えます。

 自ら鉄道を逃してしまった嬉野と、鉄道を誘致できなかった南隣の鹿島町(現・鹿島市)の地元有志はやがて、「独自に鉄道を整備する」という判断を下します。

【地図/写真】90年前にあった私鉄ルートと「幻の嬉野駅」

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コメント

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4件のコメント

  1. 有田〜三河内〜早岐じゃないの?

  2. 九州新幹線も八女や山鹿周りだったら、新大牟田や新玉名よりは多くの利用を見込めていただろう。

  3. 祐徳軌道

  4. 情報お知らせいたします。