西九州新幹線で91年ぶり“鉄道復活” 嬉野温泉 昔の電車なぜ消えた? 背負った百年の悔い
鉄道を逃した?では作ろう!→たった16年で廃止
鹿島には「日本三大稲荷」の一つとしても知られ、現在でも年間300万人の参拝客が訪れる「祐徳稲荷大社」があります。しかし当時の鹿島には鉄道が通っておらず、この参拝客輸送を目的として、武雄~塩田(現・嬉野市塩田)~鹿島~祐徳稲荷間に「祐徳軌道」が1907(明治40)年までに順次開業。鹿島はもともと鹿島藩の城下町でもあり、最後の藩主である鍋島直彬公も開業に尽力したといいます。
その後、1915(大正4)年に、祐徳軌道の塩田から嬉野の市街地に向かう「肥前電気鉄道」が、地元財界の有志20名の出資によって開業。母体となる会社が配電事業を行っていたこともあり“電車”(電化路線)として開業を果たしました。
この当時は、九州内でも電化路線は福岡・大分の一部のみ。県都・佐賀市には私鉄「佐賀軌道」が走っていたものの馬車鉄道時代からほとんど設備が変わらず、電化されたのも肥前電気鉄道の開業から十数年後のことです(その後1937年に全線廃止)。当時の佐賀新聞が肥前電気鉄道開業の様子を「県都・佐賀ですら馬車モドキを鉄道と言い張る中、僻地・嬉野に電車が開通するという驚き」(原文ママ)と伝えていることからも、いかに“電車”が驚きをもって迎えられたか、想像に難くありません。
しかしこの肥前電気鉄道は、たった16年で廃止を迎えます。この頃には鹿島を経由して肥前山口~諫早間を短絡する有明線(現在の長崎本線)の建設が進み、1930(昭和5)年に部分開通し肥前鹿島駅が開業。祐徳軌道は乗客を完全に取られてしまい、国からの補償を受けとる形で翌年4月に鉄道を全線廃止。祐徳軌道の途中駅・塩田が起点であった肥前電気鉄道は接続先を失い、宙に浮いてしまったのです。
折からの恐慌で頼みの配電事業が急速に傾いていたこともあり、祐徳軌道の廃止から半年後の1931(昭和6)年10月、肥前電気鉄道も廃止となりました。ここから西九州新幹線の開業まで、91年続く「鉄道のない街」の歴史が始まります。
有田〜三河内〜早岐じゃないの?
九州新幹線も八女や山鹿周りだったら、新大牟田や新玉名よりは多くの利用を見込めていただろう。
祐徳軌道
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