「広島~浜田55分」果たせなかった高速“陰陽連絡”鉄道 島根に残る2本の未成線「今福線」
広島県側は「可部線」として開業、島根県側は…
他にも沿線には、「水害を避けるため基礎部分が円形で作られた橋脚」(宇津井地区)、「駅予定地だった場所に通ずる“えきまえばし”」(旭地区)など、さまざまな鉄道の名残を見つけることができます。
山陽・山陰を結ぶ“陰陽連絡”路線として早くから工事が進み、一部区間でレールの搬入まで進んでいたという「今福線」は、なぜ開業が叶わなかったのでしょうか。
広島~浜田間を結ぶ“陰陽連絡”の鉄道の構想は比較的早くから議論され、1896(明治29)年には島根県側から「芸石鉄道」、広島県側から「広浜鉄道」が免許を申請。そして広島県側では1909(明治41)年に私鉄として開業していた区間が1936(昭和11)年に国有化されました。現在のJR可部線です。
この時点で延伸先となる一部区間ではレールまで運び込まれていたといいます。しかし第二次世界大戦の激化により両県側とも1940(昭和15)年に工事は中止、レールはそのまま戦地に供出されてしまいました。
広島県側は戦後も延伸を繰り返し、1969(昭和44)年には県境から10kmほど手前の三段峡駅まで到達。しかし島根県側は戦前に工事を進めていた区間が水害で崩壊していたこともあり、大幅にルートを変更します。その結果、9割近くが橋やトンネルを通り、広島~浜田間を最速55分で結ぶ幹線鉄道として工事が進められました。
1974(昭和49)年に起工式を行い、順調に建設が進んでいましたが、折悪く国鉄は経営不振で合理化を進めることに。日本鉄道建設公団(現在のJRTT鉄道・運輸機構)が工事を進めていた区間は、1980(昭和55)年、一斉に工事が凍結されます。さらに、広島県側の国鉄可部線が一部、赤字のため廃止対象となっていたこともあり(のち2003年に可部~三段峡間廃止)、工事は再開されませんでした。
こうして島根県側で、いまの「広浜鉄道今福線遺跡群」が山深い谷にそのまま残ったのです。
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