なぜ“江戸”? 横浜市「佐江戸」の謎 「江戸の左」説は本当か
横浜市内の中原街道周辺では、案内標識に「佐江戸」という地名をよく見かけます。現代から見ると、ちょっと気になる“江戸”の文字。実際、その場所は“江戸の左”にあるようにも見えます。地名の由来を探りに現地を見てきました。
江戸時代よりはるか前に名はあった
東京都の五反田から神奈川県平塚市まで、川崎市の武蔵小杉や横浜市の港北ニュータウン、大和市などを貫く幹線道路が「中原街道」です。中世以前からの歴史を持つとされ、現代でも交通量は多く、神奈川県では県道45号に指定されています。
その中原街道を走っていると、横浜市内にて高頻度で案内標識に登場する場所として、「佐江戸」(さえど)という地名があります。「佐江戸○○km」のほか、交差点において交差側にも「佐江戸 →」といった形で表記されています。
一説では、中原街道は徳川家康が江戸城に入る際に通ったとされており、現在の都筑区に位置する佐江戸は江戸城から見ると南西にあります。右か左かでいえば“江戸の左にある”といえなくもありません。“左江戸”が転化して佐江戸なのでしょうか。
地図を見ると、佐江戸交差点から西へ200mほどの場所に佐江戸城跡があります。城は16世紀に築かれたとされることから、江戸が首都として発展し、広く名が知れ渡るより以前から佐江戸の名があったことになります。
それどころか鎌倉時代の1262年、奈良の僧が鎌倉入りした際の紀行文『関東往還記』に、武蔵国佐江戸郷という記述が見られます。これは書物における初出とされ、当時すでに人の往来があったことがうかがえます。時代が下った戦国時代には、豊臣秀吉も小田原攻めに際し佐江戸の地(城とも)を掌握しようとしたそうです。
実際に佐江戸城跡がある場所を訪れると、そこだけが小高い丘になっており、鶴見川流域の低地や新横浜のビル群が一望できます。築城されたのも納得の見晴らしです。
同じ横浜市内の最戸や、さいたま市の道祖土(どちらも「さいど」)と同じ語源てことになるんでしょうか。
「江戸が首都として発展し〜」とありますが、明治になるまで日本の首都は京都なので、この表記はおかしいと思います。