戦争に駆り出された「海の軽トラ」機帆船とは 「南方から帰ってきた船は1隻もなかった」県も
戦前・戦後を通じて「海の軽トラ」的に使われた日本独特の小型貨物船「機帆船」。大洋では頼りない性能の小船が、戦時中は軍に徴傭され、苛酷な任務についていました。知られざる機帆船の戦いを振り返ってみましよう。
海の軽トラ「機帆船」とは
日本独自に発達した小型の動力船に「機帆船」という船種があります。その名の通り、エンジンを使用して走ることも、帆を使用して帆走することもできる船でした。
日中戦争・太平洋戦争の時代、大型貨物船や客船などの民間船が軍に徴傭(チャーター)され、危険な任務に従事しました。古めかしい外観を持った機帆船も、それらの船と同様に軍務につき、その多くは返ってきませんでした。本稿では、知られざる戦中の徴傭民間船のなかでも、さらに知られざる機帆船の戦いについて掘り下げます。
さて、機帆船とはどのような船種だったのか、まずはその概要を説明します。搭載されるエンジンは「焼玉エンジン」と称するもので、これは点火プラグの代わりに熱した鋳造製の玉を使って、シリンダー内の圧縮した燃料を爆発させる仕組みで、粗悪な燃料でも稼働する点が特徴でした。この焼玉エンジンは、日本では明治後半から急速に普及し、その特有のエンジン音から、これを搭載した小型船は「ポンポン船」とも呼ばれていました。
『船舶運営会史』によれば、機帆船の1隻あたりの平均総トン数は40総トン程度、そのほとんどが瀬戸内海航路を中心に運行されていたとされます。また、この資料によれば機帆船は「耐波性に乏しく、通信設備も無く外洋航海には不適当であり(中略)少しの時化に際し避難を必要とし又潮流の如何によっては潮待ちをなす」とされており、いささか頼りない性能の船であったことがうかがわれます。
それでも最盛期には1万隻ほどが運航しており(完全に姿を消したのは2000年頃)、その多くが船主=船長の家族経営で、少量の貨物を運ぶには荷主にとって便が良く、戦後は「海の軽トラック」として重宝されていた小型貨物船だったのです。
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