操縦室の位置なぜそこ!? 左右非対称の変態飛行機「BV 141」の伝説 設計者は“カワサキ”を育てた?

採用されなかった理由とは?

 しかし、同機が採用されることはありませんでした、かわりにドイツ航空省が採用したのはフォッケウルフのFw189という偵察機でした。この機体は、エンジン1基という要求を守っていませんでしたが、採用機体となりました。

 BV 141不採用の理由は、エンジンの出力不足であると航空省はしましたが、それは表向きで、ドイツ航空業界の大手であるフォッケウルフに配慮してという説もあるようです。

 その後、フォークト技師は納得できなかったのか、エンジンをパワーアップした改良型の試作を許すよう航空省に掛け合い、5機の発注を得ました。しかし、改良機に採用された出力1560馬力のBMW801Aエンジンはパワーがありすぎるため、機体も大幅に改修する必要がありました。

 改良型であるBV 141Bは1941年1月9日に初飛行しましたが、エンジントラブルを頻発させることになります。また、そのときは既に、Fw189が量産されており結局、計画は1942年には全面中止が決まります。

 フォークト博士はほかにも、コックピットを中央胴体終端部に配した3胴式の高速爆撃機P.170、 左右非対称に加えてレシプロ・ジェットの混合動力攻撃機であるP.194など、異形の航空機を開発しましたがいずれも採用されることはありませんでした。

 しかし、戦後はボーイング社などで、ボーイング747の開発に関わるなどしています。実は日本の航空機産業の発展にかなり貢献した人物でもあります。

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テスト中のBV 141(画像:連邦公文書館)。

 1924年にフォークト博士はクラウディウス・ドルニエに推薦される形で、日本の川崎造船所飛行機部(後の川崎航空機)に技術協力のスタッフとして派遣され、八八式偵察機や九二式戦闘機の設計に携わります。そのとき、教えを受けたのが土井武夫技師で、戦中は三式戦闘機「飛燕」、戦後は国産旅客機「YS-11」の開発に関わるなど、日本の航空技術発展の歴史に欠かせない人物となります。ちなみに、川崎に派遣されていた時代のフォークト博士はかなり堅実な設計をすることで知られていました。

【了】

【え!? かなり正統派】これが、フォークト博士が川崎で関わった八八式偵察機です(写真)

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