竣工時は世界最大だった戦艦「扶桑」 6基の主砲を手放してまで出た空母化計画
一時は空母化改装の話も?
1941(昭和16)年12月、日本はハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争がはじまりました。「扶桑」など戦艦部隊も出撃しますが、空母部隊による航空攻撃が成功し、「扶桑」に直接の交戦はありませんでした。
翌1942(昭和17)年6月、ミッドウェー海戦で大敗北を喫した日本は空母戦力の増強が急務だとし、「扶桑」を空母化する計画を打ち立てます。結果的に中止となるものの、一時は工期短縮案として、「伊勢」や「日向」のような航空戦艦化も検討されました。
戦局は徐々に日本不利に傾いていき、また海戦の在り方は空からの攻撃を主体としたものに移行していました。もはや「扶桑」に出番はなく、基地などで停泊する時間が長くなっていきます。それでも1943(昭和18)年には、対空機銃を増備しています。
運命となったのは、1944(昭和19)年10月に戦われたレイテ沖海戦でした。フィリピンを攻略しようとレイテ島に上陸してきたアメリカ軍に対し、空母部隊を“囮”に戦艦部隊がレイテ湾に殴り込みをかけるという作戦でした。
24日、レイテ島の南東に位置するスリガオ海峡において、「扶桑」などの艦隊はアメリカ軍の待ち伏せ攻撃にあいます。「扶桑」には艦載機が投下した爆弾が命中、機関室や水上機が破壊され炎上してしまいます。
なんとか航行する「扶桑」でしたが、翌25日未明、今度はアメリカ軍の駆逐艦が放った1本の魚雷が命中。これが致命傷となり、「扶桑」は早朝に沈没しました。竣工時は世界最大の戦艦も、本領を発揮するころには旧式艦となっていたことも否めません。なお唯一の同型艦だった「山城」も、同じ海戦で沈没しています。
【了】
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