鉄道車両の「ミ」はミリタリーのミ!? 国鉄の現存激レア「おいらん車」意外すぎる過去の“形式名”とは
「スヘ」から「オヤ」になった車両も
1952(昭和27)年といえばGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が解体され、日本が主権を取り戻した年。連合軍専用客車も順次返還が行われたのですが、駐留軍が必要とする兵員輸送用客車や、部隊調理車、簡易寝台車など一部の車両は返還対象外とされました。また、部隊料理車3315のように、サンフランシスコ講和条約が調印されたあとに増備された車両もありました。同車が連合国専用客車から解除されたのは、さらに4年後の1956(昭和31)年のことです。
そして1957(昭和32)年、軍番号3315だったオシ33 104は、国鉄長野工場で建築限界測定車オヤ31 31に改造。現在に至っています。
ところで、他のオヤ31形の中にも、連合軍特別客車を経ておいらん車になった車両がいました。中でもJR九州で2005(平成17)年に廃車されたオヤ31形21号(オヤ31 21)は、車端にガラス張りの密閉式展望室を備えていたことが特徴でした。
オヤ31 21の連合軍専用客車時代は「病院車」スヘ31形13号(スヘ31 13)・軍番号2911、軍名称BRISTOLとして扱われたのち、接収解除。1954(昭和29)年に国鉄の事業用車のひとつ「特別職用車」スヤ51形16号(スヤ51 16)に改造され、この際に展望室を設置して、GHQの高官や国鉄幹部、海外から来た貴賓の旅行などに用いられました。
長らくJR西日本で車籍を残したまま大切に保管され、えちごトキめき鉄道に譲渡されたオヤ31 31。こうして87年にも及ぶ同車の歴史を振り返ると、太平洋戦争をくぐり抜け、連合国の占領下に日本が置かれていた時代を連合国専用客車として過ごし、建築限界測定車となってからは新しい鉄道路線のために働いてきたことがわかります。まさに昭和の日本、そして鉄道の歴史の生き証人と呼んでも過言ではありません。
【了】
Writer: 遠藤イヅル
1971年生まれの自動車・鉄道系イラストレーター/ライター。雑誌、WEB媒体で連載を多く持つ。コピックマーカーで描くアナログイラストを得意とする。クルマは商用車や実用車、鉄道ではナローゲージや貨物、通勤電車、路面電車、地方私鉄などを好む。
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