もし在来線が新幹線と同じ線路幅だったら? 日本の「鉄道の父」最大の後悔 国を揺るがした論争の顛末
2度の戦争が論を変える
しかし、狭軌の鉄道が全国的に広がった1894(明治27)年、日清戦争により「輸送力が小さい狭軌は失敗だった」と批判が起こるようになります。井上は1893(明治26)年に鉄道庁長官を辞任しましたが、「鉄道建設自体が反対される中で、建設費が安い狭軌採用はやむを得なかった」「輸送力不足は複線で解決」「三線軌として標準軌の線路を敷設する方法もある」との見解を残しています。
しかし、その井上は1904(明治37)年に始まった日露戦争の時点では、「日清戦争に勝ち、ロシアに挑むような進歩をすると分かっていたなら標準軌にしていた。余は全く先見の明がなかった」(発言は筆者が現代語に意訳)と見解を変えています。
国内世論も「世界の五大国に仲間入りする日本が、なぜ狭軌なのか」という論者が増え、政治問題となります。1908(明治41)年に運輸を統括する逓信大臣となった後藤新平は、「下関から青森までの鉄道を標準軌にすれば、韓国や南満州まで一貫輸送ができる」と訴えました。
後藤は翌年、鉄道院に対し、東京~下関間で狭軌を強化した場合と、標準軌の鉄道を建設した場合の建設費と営業費の調査を命じます。結果、「標準軌へ改軌する方が有利」という報告を受け、改軌期間は1911~1923年度、改築費は2億3000万円との方針で予算案を作りました。
この時期の1円は現代の4000円程度の価値があるため、換算すると9200億円。1年あたり707億円程度です。ただし、1905(明治38)年の国家予算における歳入総額が3億433万円という時代ですから、2億3000万円(1年に1769万円)は巨大な支出であったことは間違いありません。
こうして進み始めた改軌計画でしたが、1911(明治44)年に第二代鉄道院総裁となった立憲政友会の原 敬は、改軌に否定的でした。「改軌するならその予算で全国に鉄道を建設しろ」という考えです。しかし3年後に政権交代が起こり、寺内内閣で後藤新平が鉄道院総裁に就任すると、鉄道院工作局長の島 安次郎は、「改軌を三線軌条として、後に狭軌の線路を取り外す方法なら、列車の運行は止まらず、予算も6000万円で済む」とします。
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