もし在来線が新幹線と同じ線路幅だったら? 日本の「鉄道の父」最大の後悔 国を揺るがした論争の顛末

もし米騒動がなかったら…?

 1917(大正6)年に行われた改軌実験が成功したこともあり、鉄道院は「予算6447万円、4年間で6600kmを改軌できる」と方針を示しましたが、米騒動で寺内内閣が総辞職し、原敬が総理になったことで、とうとう「改軌不要」の方針が決められたのでした。

 その後、改軌ではありませんが、1939(昭和14)年からは東京~下関間に標準軌高速新線を建設する弾丸列車計画が始まり、太平洋戦争後に一部が東海道新幹線となりました。

 もし米騒動がなく、1923(大正12)年までに改軌が行われていたらどうなっていたでしょうか。明治~大正時代の蒸気機関車では軌間を広げることでボイラーが大きくなり、出力増大が可能でしたが、時代が進むに従い、この利点は少なくなったでしょう。

 当時、改軌は高速化に有利という見解もありましたが、井上勝の見解通り、山や川が多い地形である日本では脆弱な地盤も含めて、高速化や重量貨物列車の運行に不向きです。結局、踏切を廃した高速新線(=新幹線)を作らなければ、標準軌でも高速化はできず、車両限界は大正時代ですでに欧州並みでしたから、車両の大きさも大して変わらなかったと考えられます。

 ただし、標準軌の方が建設費がかかるため、赤字ローカル線の建設は抑制され、国鉄の財政破綻が先延ばしになったかもしれません。また、都市部は新幹線建設が不要となるため、建設費が安くなることで、高速新線の建設が史実より多く行われたと思われます。

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四国鉄道文化館に保存されているフリーゲージトレインの二次試験車両(安藤昌季撮影)。

 とはいえ、都市部の線路容量が在来線と新幹線で圧迫され、新幹線は都市部で相当のスピードダウンを強いられたでしょうし、車両は在来線並みの大きさに留まり、編成も長くできなかったでしょう。新幹線にも貨物列車が走り、高速化の妨げになった可能性もあります。筆者(安藤昌季:乗りものライター)は新幹線と在来線が棲み分けている現状の方が、トータルでの利便性が高かったように思う次第です。

【了】

【写真】唯一の「3種類の線路幅」をまたぐ踏切

Writer: 安藤昌季(乗りものライター)

ゲーム雑誌でゲームデザインをした経験を活かして、鉄道会社のキャラクター企画に携わるうちに、乗りものや歴史、ミリタリーの記事も書くようになった乗りものライター。著書『日本全国2万3997.8キロ イラストルポ乗り歩き』など、イラスト多めで、一般人にもわかりやすい乗りもの本が持ち味。

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