京成電鉄=最初は「手で押していた」!? 意外な“最古の路線”に残る「人車」の面影 今もある!
今でも見られる「在りし日」の風景
そのような営業形態の帝釈人車軌道でしたが、1909(明治42)年に創立した京成電気軌道(戦後に京成電鉄へ改称)が、東京と成田山を結ぶ路線(現在の京成本線)とともに、途中の曲金(現在の京成高砂)駅から柴又を経由し金町駅に至る路線を計画したことで、状況に変化が訪れます。
経営基盤や輸送力に問題を抱える人車では先の見通しが立たないため、保有する金町~柴又間の軌道敷設特許を京成に譲渡(売却)する契約を1912(明治45/大正元)年に締結。当時の鉄道を管轄する内務省も譲受を許可したことで京成の一路線になりました。
京成は同年11月に押上~曲金~伊予田(現在の江戸川)と、曲金~柴又の区間を開業し電車を走らせますが、それまでの約半年間は、帝釈人車軌道から引き継いだ金町~柴又の人車が唯一の営業路線だったのです。この区間は電車への変更許可を受けたうえで電車用の線路を並行して敷設することとなり、翌1913(大正2)年10月に完成して人車軌道は14年弱の歴史を閉じました。
ちなみに、柴又帝釈天は建物に施された木彫が有名ですが、本堂である帝釈堂と本殿、大客殿を結ぶ渡り廊下の欄間彫刻には明治30年代の帝釈人車軌道をモチーフにしたものが残っており、そこからも人車が名物であったことがわかります。
また、柴又駅下りホーム(金町行き)にある古レール製の柱を見ると、人車で使われたような細く小さいレールが支柱の一部として屋根の梁を支えているのを確認できます。帝釈人車軌道のものだと断定はできませんが、こんなレールの上をトロッコのような人車が走っていたのだと想像するのも面白いでしょう。
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Writer: 咲村珠樹(ライター・カメラマン)
ゲーム誌の編集を経て独立。航空宇宙、鉄道、ミリタリーを中心としつつ、近代建築、民俗学(宮崎民俗学会員)、アニメの分野でも活動する。2019年にシリーズが終了したレッドブル・エアレースでは公式ガイドブックを担当し、競技面をはじめ機体構造の考察など、造詣の深さにおいては日本屈指。
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