【懐かしの私鉄写真】吊掛駆動の元祖 “テレビ電車”も!?「成田空港ができる前」の京成&新京成

現在は「スカイライナー」が走る京成線。成田空港が開港する前の1960年代は、全線改軌工事を経て都営地下鉄との直通運転が始まって間もない頃で、空港アクセス特急ではなく成田へ「開運号」が走るなど、路線の性格も大きく異なっていました。

この記事の目次

・「成田空港開港前」の貴重な京成線の姿

【画像枚数】全29点

1960年代の京成線を走っていた車両とは

 今回は編集部からのリクエストもあり、京成電鉄の古い写真を集めてみました。私は中央線沿線の住民なので京成電鉄に乗る機会は少なく、写真も頻繁には撮っていません。大学生になると、年度末の1~3月は時間に余裕があったので、1966(昭和41)年3月に在京の私鉄をひととおり撮影しようと考え、京成電鉄にも足を運びました。

 選り好みをせず、目の前に来た車両は撮るつもりで、その頃としては珍しく、1日でフィルム1本(36枚撮り)を撮りきるくらいのハイペースでした。そのフィルムは一部が行方不明になりましたが、紙焼きがかなり残っていたので、当時の主な形式はひととおり網羅できています。ほぼ同じ時期で散発的に撮ったカラー写真や、新京成電鉄の写真も合わせてご覧ください。

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モハ100形は京成初の半鋼製車として25両が新製された。1953(昭和28)年からの更新で200形に準じた左右非対称の車体になるが、扉間の窓が1個ずつ少ない。写真のモハ125は2両目のクハ2000形更新車と同様の車体になっている(東中山/1966年3月10日、楠居利彦撮影)。
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200・210形、500・510形の計40両は、扉位置が左右非対称になっていて、駅員無配置駅で運転士が集札することを考慮したためとされている。この時期は標準車体(次の写真参照)への更新が進み、原型タイプは少なくなっていた。2両目のクハ2000形は元17m国電で、100形から600形までのモハと編成を組んでいた(東中山/1966年3月10日、楠居利彦撮影)。
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標準車体に更新されたモハ200形。500形と600形も同形態になり、車号を見ないと区別がつかない。2両目のクハ2100形は、対応するモハがない単独形式。ウィングバネ台車で乗り心地がよかった。3両目に見える未更新のモハは、パンタを降ろしているがサハ扱いではない(東中山/1966年3月10日、楠居利彦撮影)。
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2扉・クロスシートで初代「開運号」として使用された1500形。3扉化されたが標準車体とは窓配置が異なり、幅もやや狭い(東中山/1966年3月10日、楠居利彦撮影)。
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京成初の量産カルダン車でモハ750-クハ2250の2連。通常は両端をモハとする4連が5本組まれていた。足回りは2種類あり、写真の住友金属製台車(FS306)は三菱電機のモーターによるWNカルダンと、汽車製造の台車は東洋電機のモーターによるTDカルダンとなっていた(東中山/1966年3月10日、楠居利彦撮影)。

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Writer: 楠居利彦(鉄道ライター)

1946年、東京生まれ。中央線の沿線で育ったので、鉄道は複線で電化され、長編成の電車が頻繁に走るものと認識している。鉄道誌の創刊に関わり、車両データ本の編集を担当した。趣味は鉄道模型製作。

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