「船と戦車、合体させよう」日本海軍が戦車を作ったらこうなった!? 実際どう使われたのか
フネか戦車か、場所によって数え方まで違う!?
その車両は、海上では着脱式のスクリューと前後に取り付けられたフロートで航走する船として、陸上では戦車として機能するものでした。水密性を保つためリベットの代わりに溶接を採用し、ハッチにはゴムのパッキンが使われていました。フロートを取り外せば車体が軽くなり機動性が増します。ただし、素早い逆上陸を目的としていため、手間のかかるフロートの再装着は考慮されませんでした。
こうして開発された車両は、日米開戦後の1942(昭和17)年に「特二式内火艇カミ車」として採用されました。「二式」は皇記2602年(昭和17年)から、秘匿名称の「カミ車」は上西技師の名前から取られています。
「内火艇」とは、海軍が軍港などで人員が移動するのに使用するモーターボートのことです。名称からすると「フネ」である特二式内火艇は、海上では艦艇として「1隻、2隻」、フロートを外して上陸後は戦車となり「1両、2両」と数えられます。
特二式内火艇の初陣は1944(昭和19)年1月のマーシャル諸島クウェゼリン環礁の戦いで、続く6月から7月にかけてのサイパンでも戦っています。いずれも本来の目的である上陸作戦ではなく防衛戦だったために、フロートを外した状態の“戦車”として使用されました。
さらに、10月から始まったフィリピンの戦いでも断片的に投入され、12月にアメリカ軍がレイテ島のオルモック湾に上陸した際には、陸戦隊が11両の特二式内火艇や火砲、物資と共に逆上陸に成功しました。この時、特二式内火艇とアメリカ軍のLVT-1が、水陸両用戦闘車両同士の戦いを演じています。
しかし、特二式内火艇の大半は、その後の戦闘で壊滅してしまいました。
当時の日本の戦車は装甲が薄く脆弱でした。特二式内火艇も同様で、車体前面と砲塔の全周が最大で12mm、車体の上下面は6mmしかありません。また、備砲の一式37mm戦車砲は、75mmや76.2mm戦車砲を搭載するアメリカ軍のM4中戦車シャーマンにかなう代物ではありませんでした。
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