まさに発想が「シムシティ」 徳川幕府はなぜ「両国橋」を架けたのか 江戸城防備より架橋を優先した4代目将軍の采配
東京都心の東の玄関口となるのが、隅田川に架かる「両国橋」です。現在の橋は、単に橋桁を載せただけに見えますが、実は当時の最先端技術を駆使した「ゲルバー橋」となっています。そんな、350年以上におよぶ両国橋の来歴を振り返ります。
当時最先端技術を駆使した「ゲルバー橋」
東京都心から国道14号を東へ進むと、最初に現れる大きな橋が、時代劇や落語でお馴染みの隅田川に架かる「両国橋」です。
1932(昭和7)年11月に完成した鋼鉄製橋梁で、全長は164.5m、全幅は24mあります。この橋は一見すると、橋脚に橋桁の板を載せた単なる桁橋に見えますが、実は当時の最先端技術で造られた「ゲルバー橋」(正式には3径間ゲルバー鋼鈑桁橋)です。
「ゲルバー」はドイツ語で、日本語では「片持ち梁」、英語では「カンチレバー」と言います。
板(橋桁)の一方の端を橋脚や壁で固定し、もう片方の端を出っ張らせる構造で、プールの飛び込み板が典型です。長崎の世界遺産「三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン」にも、同じ技術が使われています。
両国橋は橋脚が2基あり、この上に鋼鈑桁を3枚(3径間)載せているように思われます。しかしよく見ると、橋桁の継ぎ目は橋脚の上にはなく、橋脚の間にある橋桁、つまり宙ぶらりんの箇所にあるのです。
まるで両岸からそれぞれ伸ばした腕の手の平に、1枚の橋桁を載せたような感じで、橋脚は“腕”が疲れないように支えている役目を果たしています。この方式を採用した先輩の橋としては、隅田川を2.5kmほどさかのぼった所に架かる言問(こととい)橋(1928〈昭和3〉年完成)があります。
両国橋の施工は、石川島造船(現・IHI)と間組(現・安藤ハザマ)が担当しています。
現在の両国橋は、「震災復興橋梁」のひとつとして架け替えられました。「震災復興橋梁」とは、1923(大正11)年の関東大震災で損壊した橋を政府主導のもと大急ぎで再建したもので、その数は東京を中心に400橋を超えます。
隅田川の永代橋や吾妻橋、厩橋、言問橋も同じ仲間で、震災前も鋼鉄製でした。しかしいずれも橋桁が木製だったため、焼け落ちてしまいました。
一方、先代の両国橋は1904(明治37)年完成の3径間曲弦トラス橋で、鋼製の橋桁は歩道部分を除きほぼ無傷だったため、そのまま利用されました。
しかし、今後交通量の急増を予想してか、“橋梁再建ラッシュ”とタイミングを合わせて架け替えられました。なお、中央径間部分の曲弦トラスの上部構造は、中央区の南高橋に流用され、都内の道路橋としては最古の鉄橋として健在です。
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