【懐かしの私鉄写真】西武の貨物が走り回っていた「所沢&国分寺」 “武蔵野線ができる前”の風景 機回しがかなり大胆!?
かつて、西武鉄道には貨物列車が走っていました。商業施設「グランエミオ所沢」も、元々は貨物側線だったのです。国鉄との貨車の受け渡しは、池袋と国分寺で行われていましたが、1976年に大きな変化を迎えることになります。
この記事の目次
・所沢~新秋津間の「新たな連絡線」で変化した西武の貨物列車
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所沢~新秋津間の「新たな連絡線」で変化した西武の貨物列車
1976(昭和51)年3月は、西武鉄道の貨物列車にとってひとつの「区切り」となる変化がありました。それまでは池袋と国分寺で国鉄と貨車の受け渡しを行っていたものが、所沢~新秋津間に新たな連絡線を新設することにより、武蔵野線の新秋津に1本化されたのです。
私は1975年5月からほぼ1年間、所沢の駅近くに住んでいたので、暇さえあれば西武の車両を撮影していました。電車は101系の200番代が増えつつあり、赤電の半分くらいは吊掛式の451系など。701系はやっと冷房改造が始まっていました。自宅にいても駅で入れ換えをしている電機の汽笛が聞こえるし、休日は2歳の長男をベビーカーに乗せ、踏切の脇で貨物列車の入れ換えを撮影するという、なかなか楽しい時代でした。
この時代の西武鉄道には、6形式13両の電気機関車が在籍していました。内訳はE851形4両、E21形1両、E41形4両、E51形2両、E61形1両、E71形1両。1975年時点でE41とE51は休車で、前者は所沢車両管理所、後者は小手指車両管理所に留置されていました。運用上はE851、大型(E51、E61、E71)、小型(E21、E41)に分けられます。
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Writer: 楠居利彦(鉄道ライター)
1946年、東京生まれ。中央線の沿線で育ったので、鉄道は複線で電化され、長編成の電車が頻繁に走るものと認識している。鉄道誌の創刊に関わり、車両データ本の編集を担当した。趣味は鉄道模型製作。