魚雷40連!? 旧海軍の決戦兵器「じゅうらいそうかん」とは 歴史に翻弄された異形の軍艦

旧日本海軍が造った唯一無二の軍艦「重雷装艦」。魚雷を片側20本一斉発射可という異色の軍艦は一体どのようにして生まれ、実戦ではどうだったのでしょうか。その一部始終を振り返ります。

激戦を生き延び、戦後は工作艦に変身

 改造の候補となったのは、球磨型軽巡洋艦の「北上」「大井」「木曾」の3隻でした。このうち「木曾」を除く2隻が1941年に改造され、重雷装艦としてデビューしています。

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アメリカ海軍軍需部ビル前に展示された九三式魚雷。アメリカ軍がガダルカナル島のクルツ岬で回収したもの(画像:アメリカ海軍)。

 しかし、太平洋戦争が始まり、実際にアメリカ艦隊と対峙するようになると、緒戦でのハワイ真珠湾への奇襲攻撃を見るまでもなく、海の戦いは戦艦が主力の「大艦巨砲」から、空母が主力の「航空主兵」へと変化して、重雷装艦の出る幕はなくなってしまいました。

 そのため、「北上」も「大井」も戦争中盤にはせっかくの魚雷発射装置を降ろして高速輸送艦として運用され、特に「北上」は、戦争末期になると人間魚雷「回天」を多数搭載する専用母艦に改造されています。

 激戦の中、「大井」は1944年7月、香港の南側、南シナ海上でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没したものの、「北上」は大戦を生き抜き、工作艦や特別輸送艦として使われたのち長崎の地で解体されました。

 旧海軍の独特な作戦思想から生まれた特殊な船「重雷装艦」は、その生涯もまた歴史に翻弄されたものだったと言えるのではないでしょうか。

【画像】これが人間魚雷「回天」搭載母艦に姿変えた「北上」です

Writer:

東京・御茶ノ水生まれ。陸・海・空すべての兵器や戦史を研究しており『PANZER』、『世界の艦船』、『ミリタリークラシックス』、『歴史群像』など軍事雑誌各誌の定期連載を持つほか著書多数。また各種軍事関連映画の公式プログラムへの執筆も数多く手掛ける。『第二次世界大戦映画DVDコレクション』総監修者。かつて観賞魚雑誌編集長や観賞魚専門学院校長も務め、その方面の著書も多数。

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