魚雷40連!? 旧海軍の決戦兵器「じゅうらいそうかん」とは 歴史に翻弄された異形の軍艦
旧日本海軍が造った唯一無二の軍艦「重雷装艦」。魚雷を片側20本一斉発射可という異色の軍艦は一体どのようにして生まれ、実戦ではどうだったのでしょうか。その一部始終を振り返ります。
魚雷発射管40門備える唯一無二の軍艦
太平洋戦争が始まった頃、旧日本海軍は4連装魚雷発射装置を10基、魚雷発射管の数にすると実に40門を備える、いわゆる「重雷装艦」と呼ばれる船を生み出しました。「魚雷のためのプラットホーム」ともいうべき特殊な軍艦は、なぜ誕生したのでしょうか。
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重雷装艦が誕生した経緯を知るためには、時計の針を1920年代に戻す必要があります。1918年に第1次世界大戦が終わると、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの戦勝列強国は、ワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約を締結して、当時の海上戦力の主力だった戦艦以下、各種の軍艦の保有隻数を制限することにしました。
その結果、アメリカとイギリス両国の戦艦の保有隻数比率を5とした場合、日本の割合は3に抑えられてしまったのです。
しかし第1次世界大戦後、日本はアメリカを仮想敵国としており、もしアメリカと戦争になった場合は、米本土の西海岸やハワイを出発して日本に向かって来る大艦隊を迎え撃つ必要がありました。
そこで、アメリカ艦隊が太平洋を横断してくるあいだに、日本側は潜水艦や飛行機で迎え撃って、アメリカ艦隊に随時損害を与え、場合によっては戦艦の隻数を減らし、西太平洋で艦隊決戦を行う頃にはアメリカよりも少ない隻数の日本の戦艦群でも対等に戦えるようにする「漸減邀撃(ざんげんようげき)」という戦い方を考え出します。
つまり戦艦が足りない分を、軍縮条約における保有隻数が戦艦よりも厳しくない艦種で補おうというわけです。
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