運命は戦艦「大和」とともに… 軽巡ながら奮闘した「矢矧」をご存じか
旧日本海軍の軽巡洋艦「矢矧」が1945年の今日、戦艦「大和」と共に沈没しました。水雷戦隊の旗艦として、駆逐艦8隻を従え沖縄へ向かったのです。同艦の生涯を振り返ってみます。
駆逐艦を統率し「大和」を護衛
80年前の4月7日、当時世界最大と謳われた旧日本海軍の戦艦「大和」が沈没しました。激戦が続く沖縄へ援軍として向かう途中、鹿児島県の坊ノ岬沖約200kmの海上で、アメリカ軍機の猛攻にあったのです。
作戦は失敗に終わり、「大和」を含む10隻の艦艇のうち6隻が撃沈されました。この際、「大和」に次ぐ大きさだったのは軽巡洋艦「矢矧」でした。「矢矧」は随伴した駆逐艦8隻とともに編制された水雷戦隊の旗艦を務め、「大和」と運命を共にしています。

そのような「矢矧」は、どのような艦艇だったのでしょうか。
「矢矧」が竣工したのは1943(昭和18)年の12月29日。阿賀野型軽巡洋艦の3番艦として、佐世保海軍工廠においてでした。基準排水量6600トンあまり、速力35ノット(約63km/h)の艦にして、15cm連装主砲3基、4連装魚雷発射管2基、8cm連装高角砲2基、水上偵察機2機を搭載。特に主砲は仰角を向上させ、対空兼用とされました。翌1944(昭和19)年には、主に空母部隊の護衛として南方へ赴きます。
初陣は6月のマリアナ沖海戦でした。すでに戦局は悪化しており、ともに作戦に参加した空母などが撃沈されました。襲来するアメリカ軍機との対空戦闘のほか、従える駆逐艦とともに沈没艦の乗組員救助などに従事しました。
10月にはフィリピンのレイテ島を巡って勃発した、史上最大の海戦ともいわれるレイテ沖海戦に参加。戦艦「金剛」を旗艦とする第二部隊に属しました。しかし戦局は圧倒的にアメリカ軍有利であり、大和型戦艦の「武蔵」ほか、「瑞鶴」など4隻の航空母艦が撃沈。旧日本軍は事実上、艦隊戦力を喪失するという大敗を喫しました。
「矢矧」も一連の海戦で幾度となくアメリカ軍と交戦。沈没こそ免れたものの命中弾を受け、損傷箇所多数で故郷の佐世保に帰投しました。この際に修理されるとともに、レーダーの追加設置や機銃の増設など、対空火力を強化します。
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