改装に次ぐ改装… 最新戦艦→空母艦隊の中心へ成り上がった「赤城」 最初はダメダメだったけど
太平洋戦争の緒戦で航空母艦6隻を中心とした南雲機動部隊は、アメリカ、イギリスの艦隊相手に大きな戦果を挙げます。その旗艦が空母「赤城」でした。巡洋戦艦になるはずが、改装を受け続けて空母となった武勲艦について紹介します。
空母として名高い「赤城」 元は…
1910年代、日本はアメリカ、イギリスと激しい建艦競争を繰り広げていました。1917(大正6)年、長門型戦艦に劣らぬ防御力を持ちながら、攻撃力、速力で大きく上回る天城型巡洋戦艦の建造予算が認められます。天城型は常備排水量4万1200トンにして41cm砲10門を備え、30ノット(約54km/h)で航行できるなど、機動性を重視。こうして1番艦「天城」とともに2番艦「赤城」の建造も1920(大正9)年12月、広島県の呉で始まりました。

天城型は他国の巡洋戦艦、それこそ当時新鋭であったイギリスの「フッド」(アドミラル級)、ドイツのヨルク代艦級、イタリアのフランチェスコ・カラッチョロ級、ロシアのボロジノ級、アメリカのレキシントン級、未完成艦を含む全ての艦と比較しても総合性能で上回っており、完成すれば「世界最強の巡洋戦艦」になるはずでした。
しかし、1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約で、天城型は建造中止となります。これを受け、旧海軍は天城型を大型高速客船として完成させ、戦時に戦闘艦へと戻すことを検討しますが、「改造費が莫大で、運航の採算も合わない」と断念。軍縮条約の規定を受け、天城型は空母に改造されることが決まります。
しかし1923(大正12)年9月の関東大震災で「天城」は破損、空母への改装ができなくなります。一方、呉で改装中だった「赤城」は問題なかったため、そのまま空母へと生まれ変わりました。なお、「天城」の代わりとして土佐型戦艦「加賀」が空母に改装されたため、「赤城」は同型艦のない船となりました。
なお軍縮条約で、空母は基準排水量2万7000トンまで認められる規定でした。日本は巡洋戦艦時に常備排水量4万1200トンあった「赤城」を、2万7000トンの空母に仕立て直します。
軽量化のメインは主砲や装甲の撤去でしたが、軽くすると船体が浮かび上がり、スクリューが機能しなくなるため、艦尾を沈め、艦首を浮き上がらせる形で軽量化を図りました。それでも、完成時の基準排水量は2万9500トン(3万2774トン説もあり)と条約違反でしたが、対外的には2万6950トンと発表しています。
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